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空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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 仏教研究 #4

※浅学ですので、激しい突っ込みはご遠慮ください(笑)
しかし、間違いがあれば書き込みしていただくと助かります。
また、私の我執や我見が入っていることは否定できない事実ですので、鵜呑みにはせずに疑問に思ったら自分自身の心で考察してください。
また、テ-ラワ-ダ仏教(上座部)をここでは一応、研究しています。

#4-1五蘊(心と体=人)
五蘊とは五つの塊(蘊)という意味で、肉体と感覚器官、
意識の塊が仏教では「人」とか「有情」と定義しています。
例えば、自動車は様々な部品の集まりを組み立てて自動車と定義していますが、知識が自動車と定義しているのみで、自動車という名称は原始から決まっていた訳ではありません。人の知識がはじめて自動車と認識出来るようなってから自動車と認識できます。その自動車も元を正せば様々な構成物の塊に過ぎず、その構成物一つでは自動車足りえず、自動車もその構成物一つが欠けたら自動車足りえません。

◇色(蘊)・・・身体と身体の全ての行為、肉体である体とその生命活動を指します。

◇受(蘊)・・・五つの感覚機能(目・鼻・舌・耳・体)が外界の現象を感じ取ることを指します。例えばお線香の匂いを感じ取ることなのですが、簡単に言うと感受作用のことです。分解して考えますと、鼻がお線香の匂いを吸い込んで、脳で「匂い」と認識することになります。ここではまだ「匂い」と認識しているだけでなんの「匂い」なのかは判別できません。

◇想(蘊)・・・概念、あるいは想念のことを指します。例えば「私は男だ」「私は女だ」といった知識に基づいた想念です。「私は社長で偉い」とか「足が速い」とかそういった表象作用のことです。受(蘊)の例から見ると、「お線香の匂い」の「匂い」が「お線香」であることを知識から認識する作用を指します。

◇行(蘊)・・・意思の作用のことを指します。例えば咽が渇いて「水が飲みたい」と想う作用で、~したいと想う意思作用を総括して行蘊と呼びます。

◇識(蘊)・・・受・想・行を総括した構成である識(蘊)を指します。
受・想・行は認識作用の過程を分類したもので、「識」にまとめられます。例えば花を見るのが受で、その花が薔薇だったとすると、薔薇の花だと知識から認識するのが想です。花を見て、「綺麗な赤い薔薇、私の好きな花」と想うのは受と想の作用となり、「種を撒いて赤い薔薇を育てたい」という意思作用が受と想と行が蘊となった識の作用です。

上記の五つの作用が人となります。先に述べた自動車の例と同じで人も構成物の塊に過ぎず、その構成物の優劣はありません。構成物の一つだけ取り出しても人足りえず、欠けていても人足りえないからです。そこに優先される順位はありませんが、仏教では便宜的に心を優先させています。

#4-2五取蘊
「比丘たちよ。これが苦聖諦である。生も苦である。老も苦である。病も苦である。死も苦である。憎い人に会うのも苦である。可愛い人々と離れるのも苦である。求めるものを得ないのも苦である。要するに五取蘊は苦である。」
※取とは、執着すること指します。
ブッダは五蘊に執着すること自体が苦(ドゥッカ)であると説きます。
※苦(ドゥッカ)とは、不安定、不安、悩みのことを指します。

#4-3五蘊を知ることの意義
人は各五蘊がそれぞれ依存しあう形で存在し、それぞれが関連し合い人を形成しています。よって、五蘊はそれぞれ単独では存在できず、人もそれがないと存在できません。この関係性において優劣とか区別は存在し得ず、五蘊も相互依存の中でしか存在し得ないのなら、固定された自我(そのものの自立性、実体)は存在しないこととなります。
五蘊を知ることにより、諸法無我、業(カンマ)の原理を理解することへの連絡となります。

byガム
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明けましておめでとうございます。 

魂は転生を繰り返した存在で、

その転生の経験により個性があるみたいですね。

魂も転生により流転変化しながら、宇宙誕生と破壊を何度も経験しています。

真我(ア-トマ)とは梵(ブラ-フマ)から生まれ、

転生を繰り返してやがて梵(ブラ-フマ)へお里帰りしたりします。

この流転変化の中では固定された我(ア-トマ)を見つけることは不可能なんですね、

つまり、魂も私達が成長することによりその影響を受け続け、

他の魂との相互の関係にも影響されるので、魂は永遠に成長を続けますよね。

そして、梵(ブラ-フマ)へのお里帰りが魂のリセット。

リセットされた魂はまた転生を繰り返し、またまた父母の元に帰っていきます。

前述した魂の旅ともいえる流転変化の円環の中には固定された我はありません。

で、私のような凡夫は魂との繋がりを「思い出せない」でいるわけです(笑)

その繋がりは全ての人の潜在意識の中に眠っています。

これは私の想像ですけど、

クンダリ-ニの覚醒や神秘体験は魂への扉の所在を知るきっかけに過ぎず、

扉を開けるには個人の意識と行いによると思います。

扉を見つけることと、扉の鍵は総合的な意識に隠されていて、

心が透明なんだと認識できれば、鍵は私から私へと手渡されます。

その鍵を握るのが、心です。

心の中の善心と悪心が不ニであり元極であることを知ることと、

鍵のありかへ進むバロメーターは心が生み出す怒り憎しみ苦しみと差別です。

心の中にある鍵への案内人はネガティブな私達自身の意識で、

心の天秤を零(ゼロ)にしてネガティブな意識を消滅すれば、心にしまっておいた鍵はみつかり、

心(私)は扉の向こう側にある光の世界へと旅立つのです。

今年一年が、皆さんが心の鍵をみつけて、未来へと切り拓く年になりますように。

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生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。

byガム
 今年も今日で年末を迎え、また新たな年がやって来ようとしています。

私にとって激動の2009年でした(笑)

本当に今年一年色々なことがあって、

仕事が暇になって自分について深く考えさせられたり、

怒りや憎しみが増大して、打ち消す方法を模索したり。

と、まあ、色々ありました。

その中で僅かながらも前進したり、後退したりしていて、

ガイド達からも声援があったり、

警告があったり、

奇跡的なメッセ-ジを戴いたりと本当に感謝のしようもありません。

今年一年、

様々な事柄に気づかされて、

12月は否応無く心を浄化する思考を身につけなくてはいけない状況に追い込まれ、

とうとう、真実の自分が目を覚まして心の扉を開く鍵のありかも少しだけ判明したようです。

心の状態はまだまだ不安定ですが、

心がハイハイし始めた赤ちゃんの状態に一度リセットされました。

悟るって、ベイビーハーツになることなのかな?と感じています。

では、皆様、今年は大変お世話になり本当にありがとうございました。

そして、来年も皆様に幸せが訪れるように、お祈りいたします。

来年、またお会いしましょう。

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byガム

 仏教研究 #3

※浅学ですので、激しい突っ込みはご遠慮ください(笑)
でも、間違いがあれば書き込みしていただくと助かります。

#3-1菩提樹の下で(悟りを拓く)
ブッダは苦行を共にしていた5人の修行者と別れて、
一人、ウルヴェ-ラ-の地(後にブッダガヤ-)で修行を続けました。
そして菩提樹の下で悟りを得たのですが、
上座部仏教では五月の満月の日であるとし、
大乗仏教では十二月八日と伝えられています。
私達日本人に馴染みの深いのは、
ブッダが十二因縁の理法を観じて悟ったとの伝承なのですが、
これは後世の仏教教団によって体系化されたものである可能性が高いそうです。
そこで、経典にブッダが後に語っているとした他の説を要約して記載します。

心は統一され、欲望から離れ、微細な思慮があったが、初弾を成就した。

次に、微細な思慮も止滅され内心が安静となり第二弾を成就した。

次に、平静であり、気づきがあり、喜びにとどまり第三弾を成就した。

次に、楽と苦を共に捨て、喜びと憂いを共に捨て、不苦不楽であるので、

平静と気づきによって清められた第四弾を成就した。

このように心が統一され、清浄で、汚れもなく、柔軟で、巧みな思慮あり、確立し不動となったときに、

過去の生を思い起こすことに心を向けた。

我は、過去の生の全てを思い起こし、

一つの生涯から百千の生涯を、幾多の宇宙成立期と破壊期とを思い起こした。

そして、我は赫々の名と姓とを思い起こし、生と死とを思い起こし、また転生を思い起こした。

このように我(ブッダ)は幾多の過去の生涯を思い起こし、ここに無明が滅び去った。

そして、光明が生じた。

我は、諸々の生存者が死にまた生まれるのを見た。

卑賤なるものと高貴なもの、諸々の生存者がその業に従っているのを見た。

これが、第二の明知である。

ここに無明が滅び去り、そして、光明が生じた。

我は、諸々の汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。

ここに一切は苦であることを如実に知った。

これこれの事柄に心を向けて、心は欲の汚れ、生存の汚れ、無明の汚れから解脱した。

そして、解脱した(涅槃に到達した)という智が起こった。

「生存の迷いは尽き果てた。心の清浄が完成した。なすべきことはなされ、

もはや生存の状態に達することはないと」

ここに無明が滅び明知が起こり闇黒は消滅し明知が生じた。


ブッダは出家してから6年間(一説によると7年間)かけて遂に悟りを得て、
正等覚者となったのです。

#3-2道を説く
原始仏教聖典では、ブッダが悟りを得た後に道を説くことに躊躇し、
三昧(サマ-ディ)のまま死に赴こうとしたところ、
梵天よりの勧請により道を説くことを決心したと伝えられています。
しかし、これも後世僧団の付与である可能性が高いようです。
ブッダは欲や誤った見解に汚れている人々の心を目覚めさせるのは容易いことではなく、
もし、道を説こうとしても徒労に終わる可能性を後の回顧で示唆しています。
いずれにせよ、ブッダは道を説くことを決めたようです。
仏教が後世、伝播したのはブッダが道を説くことを決めたからです。
まずは苦行時代の仲間を教化し、その後多くの人々を悟りへと導きました。
そして、道を説いてから四十五年後、齢八十歳でブッダは予言とおり涅槃に入り、
梵天へと帰っていきました。

※よく、ブッダは茸にあたって死んだとか、豚を食べたために死んだとかおっしゃる方がいます。しかし、それは大きな間違いです。ブッダは自分の死期が近いのを予見して最後の教えを説くための旅の経過の中で茸の料理にあたったと伝えられているようです。そのこと自体がブッダを死に至らしめた訳ではありません。

byガム
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