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空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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禅や瞑想、ヨガや気功もそうですが、必ずといっていいほどグラウディングをします。

なぜ、必要なのでしょうか?

これは、瞑想中に姿勢を保つのと意識をふらつかせない為と、

ネガティブな存在やエネルギ-から身を守るためにグラウディングが重要なのです。

あらゆるヒーリングテクニックに関する書籍にもグラウディングの重要性が謳われていますが、

理由はほぼ前述したことと同じでしょう。

ヒーリングを受ける方は体と心に何かしら問題があってヒーリングを受けるはずです。

ネガティブな存在の影響かもしれませんし、心の問題であるかもしれませんが、

邪気を発していることには間違いはありません。

その邪気に影響されないように、グラウディングをして地球への中心へと邪気を抜いていきます。

よく、地球の中心にアースを入れるという表現をしますが、

不要なエネルギーをアースへ流して地球の中心で浄化している訳ですね。

そして、ヒーリング中も相手の不要なエネルギーを

地球の中心と宇宙の中心に浄化しながら抜いていきます。

グラウディングは頭の天辺と尾てい骨あたりを結んだ線を地球の中心に伸ばして繋げるのですが、

このイメージだけがグラウディングではなくて、

現実的なものの見方や、家庭のこと、仕事のことを思い浮かべることでもグラウディングになります。

かくいう私はグラウディングが下手です(笑)

しかし、最近気づいたのですが、私達は地球がないと生きられません。

まあ、あたりまえのことなのですが、

そのあたりまえを忘れてしまうのが人間です。

地球と繋がっていない生命は何一つないということです。

このことを心に浮かべるだけでも強力なグラウディングになります。

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生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。

byガム
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 悟った人を私達は世尊とか如来とか聖人とか呼んでいますよね。

それに対して私のような無知な者を凡夫と呼びます(笑)

皆さんはどちらの人が尊いと思いますか?

ブッダは自身を正等覚者と呼んでいますが、

意味は読んで字のごとくです。

「正しく等しいことを覚った者」で「ありのままに見つめる者」ですよね。

仏教聖典の中に悟りを得たブッダがベナレスへ赴き、

昔の修行仲間に初めて説法を行う場面があります。

有名な初転法輪の場面ですね。

仲間に名前で声をかけられたブッダはこういいます。

「如来に呼びかけるのに名をいい、また『君よ』と呼びかけをもって如来に話しかけてはならぬ。」

しかし、

ブッダ生存当時使っていた言語であるパ-リ語の古い聖典では、

仏弟子がブッダに向かって名前で呼びかけ、尋ねる人が君よと呼びかけています。

「私を如来と呼び、敬いなさい」これは、後世の僧団がブッダを神格化しようとした創作でしょう。

如来とは「ありのままに来る者」という意味で、人をありのままに見つめ、

その視線には、いかなる区別もありません。

としますと、

やはり”悟った”人は威張ったり、私を「尊師」と呼びなさいとは絶対にいいません(笑)

逆に、威厳じみた人は真の悟りに到達していないことになります。

さらに、「凡夫」の状態がなければ「悟り」には至れません。

何故かというと、無明がなければ光明は得られないからです。

では、凡夫と悟りを得た人の差異はないということになりますが、

悟りを得ようとする人も、市井のままでいようとする人も差異がないでしょうか?

ここが大事なところですが、やはり「ない」のです。

全ての人が人生という道を歩んでいますから、

その道の過程を「ありのまま見つめる」と過程の前後に差異がないからです。

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byガム
 心はなぜあらゆる欲に執着し、我執にとらわれるのでしょう。

それは、私達が自然の法則を無視しているからです。

「全ての生命と物質は流転変化するもの」この単純な自然の法則に背いています。

人には生存欲があります。

あたりまえなのです、生きていますから。

しかし、そのあたりまえの生存欲を誇大化させているのは心にあります。

生きるために必要な最小限以上の欲を大きくして物質や現象に執着しているのは心の中にあり、

足りているはずなのに、足りないと妄想をおこしているのは心です。

また、我執という妄想に支配されているのも心です。

この世界を見渡すと永遠であるものは何一つありませんし、

独立して生命を維持している生物もありません。

私達人間も自然の循環的システムの中でしか存在しえません。

物事の価値もとらわれた心が妄想をおこしているだけで、

原始から物に付している意味はありませんし、

事象も「あるがまま」おきているだけです。

とらわれた心を開放すると、この世の全てが「あるがまま」おきていて、

全てが無色透明なんだと気づきます。

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  仏教研究 #5

※浅学ですので、激しい突っ込みはご遠慮ください(笑)
しかし、間違いがあれば書き込みしていただくと助かります。
また、私の我執や我見が入っていることは否定できない事実ですので、鵜呑みにはせずに疑問に思ったら自分自身の心で考察してください。
また、テ-ラワ-ダ仏教(上座部)をここでは一応、研究しています。

#5-1六処
六処とは、人という生命が外界の世界と接触する門(扉、道)のことを指し、境界線という呼び方もできます。
外界(世間)と受動的に接触する六門と、外界(世間)と能動的に接触する三門とがあります。
※処とは門、扉、道のことを指し、接触場所とか接続場所と認識でき、知識の入る場所でもあり出て行く場所です。

#5-2六門
外界の世間を感受する部分が六門です。
様々な外界の出来事を認識し感受するためには、眼・耳・鼻・舌・身・意の六門が必要となり、これが外界でおきる現象に対して門となり、受動的に縁(原因)が発生する扉になります。

#5-3三門

外界の世間に働きかけるのは、身と口と意(身門・口門・意門)の三門です。
三門は外界へと働きかける扉となり、働きかけることによって能動的な縁(原因)が発生する扉になります。

#5-4内処と外処
内処は私という主観に属する門です。それに対し、外処は主観に属する門に対応した客体を指します。
内処は認識するもの、知覚するもので、外処とは認識されるもの、知覚されるものという意味となります。

#5-5六所縁
外界の現象を認識する客体のことを指します。
心が引き付けられるもの、心を引き付けるものと表現できます。
六所縁の種類は色・声(音)・香・味・触・法(ダンマ)に分類されます。

#5-6六識
六処から入る情報を認識することを六識といいます。
すなわち、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・体で触れる、心を通じての識は心で分かるのです。

#5-7触(六処と六所縁と六識の関係)
六処と六所縁が触れて、六識が生じます。
しかし、処と所縁が揃えば識が生じるのではなく、関心や焦点を合わすことにより識が生じます。
例えば、電車の中で、ボンヤリ考えことをしてたら、
近くに座っていた懐かしい友人の顔は認識できません。
認識が生じるのはこの三つの構成要素が揃って初めて生じ、これを触といいます。
やさしくいうと、触は認識することで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六種類があります。

#5-8受
触に続いて生じる感覚は受となります。所縁を認識したことに対する感覚を受といい、つまり、快いとか不快とか認識した所縁に対する何ならかの感覚を指します。
感覚の質から分類しますと、苦受・楽受・不苦不楽(捨)の三つになり、
さらに詳しく分類すると、楽(身体の快適)・苦(身体の不快)・喜(心の快適)・憂(心の不快)・捨(楽も苦も感じない)の五つとなります。

#5-8認識の過程(受に至る過程)
処(認識の扉・門)+所縁(知られる客体)+識(知識)=触(認識) → 受(触に対する感覚)

#5-9想
六処で認識(受)した情報を区別する働きを想といいます。たとえば、白い二匹のウサギを区別するには違いをよく探さないといけません。その違いを探す働きが想です。

#5-10尋
想で区別した情報を熟慮、思慮することを指します。

#5-11妄想念が起こるまでの過程
処(門)+所縁+識 = 触 → 受 → 想 → 尋 → 妄想、様々な妄想念

#5-12六処を知ることの意義
六処を知ると、苦楽が発生する過程と煩悩が発生する過程が理解できます。
受が発生すると、快い感覚を求めてさらに欲しくなり(渇愛)、手に出来なくなると執着(取)してしまい、さらにその快い感覚を生む所縁を支配したいと考えて、求めるために行いをします。逆に、不快さ(苦受)が生じると、逃れたいとか、憎しみ嫌いが増長され破壊や争いに繋がっていきます。

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