空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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あるがままの心とは、どのような感覚、心情でしょうか?
ただ、あるがままの花のように世界を感受する心かもしれませんし、
ただ、風に吹かれる花のような心なのかもしれません。
私達は、ただ花のような生命を生きていることを忘れ、
同じ庭に咲く同じ花であるのに、それを忘れているか、気づかないでいます。
あなたの目は、生命と呼ばれる全体の目線の一つでしかありません。
私達生命はその多様性を具現化するために、様々な形でこの世に存在します。
多様性が生を存続させる条件であり、その多様性から生命の本質を知るためなのかもしれません。
その多様性もあるがままの生命を反映しています。
「あるがままの心」とは、私達生命をなんの捉われもなく見つめて受け入れる事に他なりません。
私達は成長するにつれ、
物の価値観や人との区別、技能の優劣から選別、区別をするようになります。
私と私の間に偽りの私を作出し、結果として私と貴方の間に隙間が生じます。
この隙間は世界に存在するのではなくて、貴方の意識下にのみ存在しています。
そして人は区別を発展させて、怒り憎しみや差別する心を当たり前のように育んでいき、
感情に捉われて、人の真実の姿から遠く遠く離れてゆくのです。
あるがままの心を見出せなければ、私達は故郷から遠く離れて、
ついには故郷の風景さえも忘れてしまいます。
では、もし貴方があるがままの姿に戻り、あるがままの心を体感したらどうなるのでしょう?
ありとあらゆる過去における人の出会いと出来事は全て必要な瞬間であり、
捉われた心で世の中を見ていたことに気がつきます。
そして、人は偽りの感情や感覚、価値観を真実であると見誤って、
ついには私達から私へ、私とは実在しない偽りの姿へと成長したのだと気がつくのです。
「あるがままの心」とは、捉われていた心を知り、自由で束縛のない心を手に入れ、
容易く感情に振り回される無秩序な人生を手放すことです。
手放すことは光に満ちた真実の私の人生へと移行し、
なにものにも捉われない、ただそこにあり、ただそこにあるがまま咲く花のような、
あるがままの人の姿を見出す心へ辿り着きます。
その場所に辿り着いて、
透明な目線でこの世界を見つめると、「ただ生きる」のが人の本質であり、
「この世はただ、美しい」と思い出すのです。
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生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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私達は、ただ花のような生命を生きていることを忘れ、
同じ庭に咲く同じ花であるのに、それを忘れているか、気づかないでいます。
あなたの目は、生命と呼ばれる全体の目線の一つでしかありません。
私達生命はその多様性を具現化するために、様々な形でこの世に存在します。
多様性が生を存続させる条件であり、その多様性から生命の本質を知るためなのかもしれません。
その多様性もあるがままの生命を反映しています。
「あるがままの心」とは、私達生命をなんの捉われもなく見つめて受け入れる事に他なりません。
私達は成長するにつれ、
物の価値観や人との区別、技能の優劣から選別、区別をするようになります。
私と私の間に偽りの私を作出し、結果として私と貴方の間に隙間が生じます。
この隙間は世界に存在するのではなくて、貴方の意識下にのみ存在しています。
そして人は区別を発展させて、怒り憎しみや差別する心を当たり前のように育んでいき、
感情に捉われて、人の真実の姿から遠く遠く離れてゆくのです。
あるがままの心を見出せなければ、私達は故郷から遠く離れて、
ついには故郷の風景さえも忘れてしまいます。
では、もし貴方があるがままの姿に戻り、あるがままの心を体感したらどうなるのでしょう?
ありとあらゆる過去における人の出会いと出来事は全て必要な瞬間であり、
捉われた心で世の中を見ていたことに気がつきます。
そして、人は偽りの感情や感覚、価値観を真実であると見誤って、
ついには私達から私へ、私とは実在しない偽りの姿へと成長したのだと気がつくのです。
「あるがままの心」とは、捉われていた心を知り、自由で束縛のない心を手に入れ、
容易く感情に振り回される無秩序な人生を手放すことです。
手放すことは光に満ちた真実の私の人生へと移行し、
なにものにも捉われない、ただそこにあり、ただそこにあるがまま咲く花のような、
あるがままの人の姿を見出す心へ辿り着きます。
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神秘的な体験と呼ばれるものを経験してまもなく、
魂の存在があるのではないかという漠然とした感覚がやってきます。
私達は自我意識に捉われていて日常的に私という主観で世界を見つめますが、
その感覚が正しいのか、誤ってるのか、疑問に思い始める非日常的な思考に悩まされます。
私は誰なのか?
この意識は本当に私のものなのか?
なぜ、生まれてきたのか?
いったい、どこへと行くのか?
これらの思考は意識が魂の目覚めを求めているのか、
それとも、魂が意識の目覚めを求めているのかどちらともいえませんが、
薄いベールの向こう側に魂の存在を認め、それがどんなものなのか知る必要があると、
思うようになるのです。
私が神秘体験をしてからまもなく、
証明できない事柄であるのですが、確信に近い感覚が生まれました。
私達は魂という存在であって、肉体は物質世界で経験するための仮の生命であり、
その魂は宇宙の中心で繋がっていると。
全ては繋がり一なる魂に帰結し、
私達が神と呼んでいる存在は、唯一の絶対神や白髭を生やした老人の人格神などではなく、
我々が神であり、神が我々であるのだ。
全ての魂はネットワークで繋がり、お互いに影響しあい、共振しながら生命を育み、
大いなる魂は私達を区別も差別もせず、ただただ、
魂のネットワークと呼ばれる光の回線を通して生命を生かしている。
そう、気づきました。
私達の魂は光のネットワークとも呼べる繋がりがあり、ただそれに気がつかないだけなのです。
全ての生命が神聖であり、全てが大いなる魂から生まれてきています。
ネットワークがなければ魂も生命も存在しません。
このことを気づいても気づけなくても、そのままで私達は一つなのです。
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魂の存在があるのではないかという漠然とした感覚がやってきます。
私達は自我意識に捉われていて日常的に私という主観で世界を見つめますが、
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私は誰なのか?
この意識は本当に私のものなのか?
なぜ、生まれてきたのか?
いったい、どこへと行くのか?
これらの思考は意識が魂の目覚めを求めているのか、
それとも、魂が意識の目覚めを求めているのかどちらともいえませんが、
薄いベールの向こう側に魂の存在を認め、それがどんなものなのか知る必要があると、
思うようになるのです。
私が神秘体験をしてからまもなく、
証明できない事柄であるのですが、確信に近い感覚が生まれました。
私達は魂という存在であって、肉体は物質世界で経験するための仮の生命であり、
その魂は宇宙の中心で繋がっていると。
全ては繋がり一なる魂に帰結し、
私達が神と呼んでいる存在は、唯一の絶対神や白髭を生やした老人の人格神などではなく、
我々が神であり、神が我々であるのだ。
全ての魂はネットワークで繋がり、お互いに影響しあい、共振しながら生命を育み、
大いなる魂は私達を区別も差別もせず、ただただ、
魂のネットワークと呼ばれる光の回線を通して生命を生かしている。
そう、気づきました。
私達の魂は光のネットワークとも呼べる繋がりがあり、ただそれに気がつかないだけなのです。
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あなたがあなたの身の回りで起きる出来事を見聞きし、
思考するとき、心のレンズをとおしてあなたは体験しています。
あらゆる出来事を。
テレビを見るとき、伴侶と話すとき、電車の中でまわりの人々を見るとき、
心のレンズは絶えず自我の意識という焦点で世界を感じ、
あなたはそれを体験しているんですね。
もし、あなたがこの世の真実を見たい、感じたいとしたら、
固定観念や先入観、形式化された価値観といったフィルターを外せばいいのですが、
このことを理解できる人は少ないようです。
このフィルターさえ外すことができれば、
奇跡的に容易く理解が始まります。
この観念と呼ばれるフィルターは人によって様々な色とか、明暗があります。
おなじ出来事を見ても、人によって採用しているフィルタ-により導かれる思考は、
無限に存在するといってもいいのかもしれません。
あなたがこの世で起きた出来事を、
観念のフィルタ-はあなた個人の体験として記憶します。
もし、あなたが観念のフィルターを外して、
あるいは、磨いて無色透明な意識の焦点により見ることができたなら、
その体験は「大いなる一つ」の体験として記録されるのです。
抵抗や分裂、自己保存や顕示といった欲があるとき、観念のフィルターは色濃く現れます。
あなたは観念というフィルターが、
自己の経験と体験、学習によって取り付けられていることを知るならば、
心のレンズに付着した汚れ、フィルターを透明にして「あるがまま」の世界を見るでしょう。
そこに、栄光と英知、自由があるのです。
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あなたはそれを体験しているんですね。
もし、あなたがこの世の真実を見たい、感じたいとしたら、
固定観念や先入観、形式化された価値観といったフィルターを外せばいいのですが、
このことを理解できる人は少ないようです。
このフィルターさえ外すことができれば、
奇跡的に容易く理解が始まります。
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おなじ出来事を見ても、人によって採用しているフィルタ-により導かれる思考は、
無限に存在するといってもいいのかもしれません。
あなたがこの世で起きた出来事を、
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もし、あなたが観念のフィルターを外して、
あるいは、磨いて無色透明な意識の焦点により見ることができたなら、
その体験は「大いなる一つ」の体験として記録されるのです。
抵抗や分裂、自己保存や顕示といった欲があるとき、観念のフィルターは色濃く現れます。
あなたは観念というフィルターが、
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「あるがまま」を認識すると、
そこになにものにも捉われない「大いなる自己」を発見します。
「あるがまま」とはそれを受け入れることではありません。
「あるがまま」になるのでもなく、
私はそれであると、
またはそれであったと思い出すことです。
そこには捉われも、怒りも、憎しみも、悲しみもありません。
ただ「あるがまま」に私達は存在し、
ただ「あるがまま」に私達は「大いなる自己」を忘れ去っていたことを知ります。
自我に捉われていた私を優しく受け止め、
そして、鳥カゴから心を開放します。
鳥カゴから開放された心は、
同じように鳥カゴに捉われている同胞(私自身)の心を開放するかもしれませんし、
鳥カゴの周りで自由に飛び、さえずり、早くでておいでと囁くのかもしれません。
「あるがまま」の心は、世界に生まれてきた目的を思い出します。
それは、私達の心で新たに生まれるでもなく、最初から知っていたことなのです。
あたかも、鳥が本能的に飛べるように、飛べなかった鳥が再び空を舞うように。
束縛から解き放たれた心は、
多くの同胞を解放する者、
新たな道を進む者、
いままで通りの生活を優しい目線で見つめながら営む者、
それぞれが自分の道を飛んでゆきます。
「あるがまま」の心は、
何者も否定せず、道に迷っている者も否定せず、カゴに留まっている者も否定しません。
道を汚し、貶め、蔑みする者も否定しないのです。
ただ、その軌跡を世界の空に描くのです。
[カテゴリーあるがままの心へ]
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自我に捉われていた私を優しく受け止め、
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それは、私達の心で新たに生まれるでもなく、最初から知っていたことなのです。
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束縛から解き放たれた心は、
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