空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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真実に気がつくと、生も死もありません。
私達は、生と死の狭間で生命を維持していますよね、
だから、生まれもしないし、死にもしなくて、
その生と死の円環に生命が存在しています。
そして、先人達がいなければ今の私の生は存在し得ないわけで、
そう考えると、ご先祖がいなければ私はいませんし、
私が今ここに生きていなければ、
ご先祖もいなかったことになります。
敬うという気持ちは大切にしなければなりませんが、
今ここにある私達の生とご先祖の生は同等です。
私達は「大いなる一つ」なるものがあってこそ存在し、
その「大いなる一つ」は私達の一つ一つの魂が「大いなる一つ」であり、
「大いなる一つ」がなければ個々の魂は存在しないのですね。
生と死は円環の中にのみ存在し、そのサイクルが生そのものだとしたら、
やはり、生と死は現象として捉えられるのみで、
本当は生まれもしませんし、死にもしません。
なぜならば、生と死を繰り返しているのが生命であり、その全体が私自身だからです。
であれば、死は当たり前のことで、ガンや死や自殺もその生の一態様なんですね。
そこで、先祖供養をしないと不幸になり、先祖がたたるという人もいて、
それが自殺やガンや不幸の元だといって、私の浄霊を受けなさいといっている人もいます。
しかし、生があれば必ず死もあるので、それはなにか、
「脅し」と言ってもいいかもしれませんよね。
賢い人なら、それは○○だと気がつきます。
もし、ご先祖を供養するのなら、貴方が生きて生きて生き抜くことで、
次の世代に繋いでゆくことです。
カテゴリー「気づきの日々」へ
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私達は、生と死の狭間で生命を維持していますよね、
だから、生まれもしないし、死にもしなくて、
その生と死の円環に生命が存在しています。
そして、先人達がいなければ今の私の生は存在し得ないわけで、
そう考えると、ご先祖がいなければ私はいませんし、
私が今ここに生きていなければ、
ご先祖もいなかったことになります。
敬うという気持ちは大切にしなければなりませんが、
今ここにある私達の生とご先祖の生は同等です。
私達は「大いなる一つ」なるものがあってこそ存在し、
その「大いなる一つ」は私達の一つ一つの魂が「大いなる一つ」であり、
「大いなる一つ」がなければ個々の魂は存在しないのですね。
生と死は円環の中にのみ存在し、そのサイクルが生そのものだとしたら、
やはり、生と死は現象として捉えられるのみで、
本当は生まれもしませんし、死にもしません。
なぜならば、生と死を繰り返しているのが生命であり、その全体が私自身だからです。
であれば、死は当たり前のことで、ガンや死や自殺もその生の一態様なんですね。
そこで、先祖供養をしないと不幸になり、先祖がたたるという人もいて、
それが自殺やガンや不幸の元だといって、私の浄霊を受けなさいといっている人もいます。
しかし、生があれば必ず死もあるので、それはなにか、
「脅し」と言ってもいいかもしれませんよね。
賢い人なら、それは○○だと気がつきます。
もし、ご先祖を供養するのなら、貴方が生きて生きて生き抜くことで、
次の世代に繋いでゆくことです。
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