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空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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 悟った人を私達は世尊とか如来とか聖人とか呼んでいますよね。

それに対して私のような無知な者を凡夫と呼びます(笑)

皆さんはどちらの人が尊いと思いますか?

ブッダは自身を正等覚者と呼んでいますが、

意味は読んで字のごとくです。

「正しく等しいことを覚った者」で「ありのままに見つめる者」ですよね。

仏教聖典の中に悟りを得たブッダがベナレスへ赴き、

昔の修行仲間に初めて説法を行う場面があります。

有名な初転法輪の場面ですね。

仲間に名前で声をかけられたブッダはこういいます。

「如来に呼びかけるのに名をいい、また『君よ』と呼びかけをもって如来に話しかけてはならぬ。」

しかし、

ブッダ生存当時使っていた言語であるパ-リ語の古い聖典では、

仏弟子がブッダに向かって名前で呼びかけ、尋ねる人が君よと呼びかけています。

「私を如来と呼び、敬いなさい」これは、後世の僧団がブッダを神格化しようとした創作でしょう。

如来とは「ありのままに来る者」という意味で、人をありのままに見つめ、

その視線には、いかなる区別もありません。

としますと、

やはり”悟った”人は威張ったり、私を「尊師」と呼びなさいとは絶対にいいません(笑)

逆に、威厳じみた人は真の悟りに到達していないことになります。

さらに、「凡夫」の状態がなければ「悟り」には至れません。

何故かというと、無明がなければ光明は得られないからです。

では、凡夫と悟りを得た人の差異はないということになりますが、

悟りを得ようとする人も、市井のままでいようとする人も差異がないでしょうか?

ここが大事なところですが、やはり「ない」のです。

全ての人が人生という道を歩んでいますから、

その道の過程を「ありのまま見つめる」と過程の前後に差異がないからです。

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byガム
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