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空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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いやね、こんなこというと何ですが僕の小さな頃の夢って僧侶になることだったんです。

なんで僧侶になりたいと思ったかってーと、良寛和尚のお話を聞いてから「僕もあんな人になりたい!」って思ったからなんですね。

今考えると、ピュアだったんだよなぁ・・・

まあ、良寛さんのお話だけじゃなくって、チョットした体験もあってそう思うに至ったんですけどね。

そんなピュアな心を持った少年は今や・・・

ジョスィ高生の生足に見とれて事故りそうになった中年オヤジだったりします。

 

フッ・・・

 

さて、本題に戻りましょうか。

僕の仏教観なんですが、普通?の人とチョットだけ違います。

まず、殆どの人が仏教を宗教として捉えていると思いますが、僕は仏教って宗教のカテゴリーに入らないんじゃないかって考えているんです。

ところで、皆さんの仏教観ってどんなでしょう?

お葬式にお経をあげているのが仏教じゃないですか?

まあ、実際のところお葬式以外に仏教に触れる機会ってあんまりないのが実情でしょう。

求道して座禅に参加している人達は違うのかもしれませんけれど。

仏(ブッダ)は目覚めた人という意味なんですが、仏教という言葉の意味はそのまま目覚めた人の教えってことで、悟りを開いた人の教えであり、悟りに至る為の教えですよね。

それがなぜか日本人の仏教観って大仏や阿弥陀如来を拝んだりとか観音様にお願いしたり、意味も判らずお経を唱えているだけの宗教・・・になってしまっています。

シッダールタ(パーリ語ではシダッタ)と呼ばれたブッダは、何故なのか自らの言葉や思想を文字にするのを禁止しています。

皆さんは何故だと思います?

定型された文字にするとその文字から多くの意味を読み取ることが可能になりますよね、それと、一人一人の生い立ちとか物の見方も違っていて、人一人を悟らせるのにマニュアル化ができるかと言うと違うんじゃないかな。

僕が思うに、夫々考えも身分も違う人達、その個性も違う一人一人に必要な薬(応病与薬)をする、そして、それができる人材を育てたかったんじゃないかと思うんです。

区別と分別をしているのは只意識であるのなら、宗教というカテゴリーも分別する意識を与えてしまい、今、仏教と呼ばれる宗教はブッダを特別な存在として扱い、それを超えることはできないといい、ブッダが想定していない区別と段階を生み出してもいます。(キリスト教も然り)

ブッダは私を越えるなって、言ったのでしょうか?

ブッダがしたかった事って、一人一人が唯一無二の存在であり、それを形成している世界が「私」であると知らせたかったんじゃないでしょうか。

ブッダはこの世の人達は自らの右の手で左の手を叩いていると、知っていたのだと思うんです。

仏教は月(真理)を指す指であって、ブッダを信奉する宗教ではなく悟りに至らせる羅針盤(ツール)である。

これが、僕の仏教観です。

 

生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。

byガム

 

↓これが、月を指す指であるので・・・ポチットして下さい

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