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「一切の物事は苦しみである。これを明らかな知慧をもって観るとき、人は苦しみから遠ざかり離れる。これ、これこそ人が清らかになる道である。」
-ダンマパタより-
えー、仏教用語の一切皆苦を「この世の全ての現象は苦しみである。」と解釈するのは大きな間違いです。
これね、意外と「この世は全部苦しみだ」って理解している人が多いんですよ。
じゃあ、どんな意味なの?ってことなんですが、説明はメンドクサイのでWikiをご覧くださいw
パーリ語のdukkha:ドゥッカは「空しい、不満、不安定、苦しい」というような意味で、どちらかというと“不安”という意味が強いみたいなんですが、中国に伝播される時に一番しっくりくる“苦”という文字を当てはめたみたいなんですね。
そこで日本人である私達が“一切皆苦”という言葉だけ聞くと、この世は苦しみなんだ・・・と理解し、特に「仏教なんて興味ないしー」みたいな方に、「この世の全ての現象は苦しみである。」といえば、「そんなのバッカみたいー」と反応すること必須なわけで・・・
まあ、よく調べてみると得心するんですけどね。
一切皆苦のニュアンスとしては、諸々の現象は苦しみに通じていますよって意味がしっくりくるのかな。
物事一切が苦しみっていっている訳じゃなくて、この世の現象は苦しみに通じているんですよという意味なのでしょうね。
例えば、生まれる事が楽で、死ぬことが苦だとしたら、生まれることが苦になります。
また、出会いがあれば別れがあり、得ることがあれば失うこともあります。
これらの出来事への感情を排せば単なる現象と捉えることもできますよね。
「一切の苦しみは意識から生み出される。これを唯、心が味付けしているだけだと気付いたとき、人はその苦しみを生みだすシステムを知り、それを捨てるときに苦しみから遠ざかり離れる・・・」
こんなことをブッダは考えたんじゃないかなと思うわけです。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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弱虫、意気地なし!ヤーイ!!
って、幼い頃良く言われてたなぁ・・・
・・・
僕って、体は大きい方だったけれど気は小さかった。
ウン、ノミの心臓って言ってもいいくらいw
でも、昔は僕って弱虫なんだなぁ・・・って思っていたんだけれど、今考えるとそんなことないんじゃないかって思っている自分がいる。
子供の頃は無謀なことをしたり、喧嘩に強い人が強くて勇気のある人だって勘違いしていた。
今思うのは、無謀なことをしないこと、人を傷つけないこと、人を裁かないこと、自分を殺して相手に接すること、素直に自分の過ちを認めること、これが真の勇気なんじゃないかと思うんです。
誰でも、自分の弱い部分を人に見られたくなくって、素直に自分の過ちなんて認められないって人の方が多い。
それって、それをしたら人から情けない奴って思われることが怖いのかもしれないし、弱みを人に見せてはいけないと思い込んでいるのかもしれない。
だけど、違うと僕は思うんだよね。
本当の勇気は弱い自分を認めて、自分にもあるのだから他者にもある弱い心を決して非難しないことだと思う。
そして、それに立ち向かいそれを持っている人を勇気付けること。
自分と同じような人がいたら、自分のように相手を勇気付けてあげられるからね。
今ある全ての生命を今ここで肯定するのにも勇気がいる。
自分も他人も否定せずに、肯定するには強い勇気が必要なんだ。
罵られても黙っている人は芯が強くて、自分を罵る人でも赦すことができる人は本当は勇気がある人なんです。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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観念ってなんでしょう?
辞書で調べてみるとですね、
【観念】
・物事に対して持つ考え。(一般)
・具体的な物がなくても、それについて心に残る印象(心理学)
・意識の対象について抱く主観的な※表象(哲学)
※表象・・・シンボル
・実体、概念(対義語)
蛇足ですが、固定観念は思い込みや先入観とは違って、明らかな間違いを固執して(誤りに気が付かないで)自己の観念を変えない場合の事(wikiより引用)を指しているそうです。
調べていると面白いよなぁ・・・
さて、今日のお題は「寒天」のおいしい食べ方についてです。
・・・
もとい、「観念」についてです。
えー、観念とは辞書で引いたとおり物事に対して持つ考えでしたね。
対象物に対して心の働きが加わり物事を判断することなんですが、過去に学習した知識や経験によって物事に対して持つ考えで、「~でなければならない、~であるべきだ、~してはならない」といった思い込みが観念です。
例えば、お金はお金だと「認識」されて初めてお金としての利用価値が生まれ、お金は大事でお金がなければ幸福になれないと思い込むのが観念なんですね。
これを固執して考えを変えないのなら固定観念になるってことで、僕達はこの思い込みと呼ばれる観念を疑うことなく信じ切ってしまっていて、それが当たり前だと思っているんだけれど、人夫々が育つ環境によって全く違う観念を採用しているのに、何故人との違いが生まれるのかも疑問に思わなかったりします。
じゃあ、なんで疑いもなく人は信じているかというと、育ての親がそれを採用しそれに恭順して生活し社会が出来上がっていて、人はそのシステムの中で生きてゆくのが幸福なんだと思い込むからなんでしょうね。
まあ、これも当然といえば当然ですよね、社会に守られていると感じますからね。
そのシステムにケチをつけたら、アンタ、気でも狂ったの?
なんて言われるのがオチだろうし。
まあ、既成社会がそれを当然のようにして人を教育していくので、観念を持つのは当たり前と言えば当たり前でしょう。
で、「悟り」の一段階あくまで一要素なんですが、観念が妄想なんだと気付く事なんです。
ありとあらゆる物事への思い込みは意識が作り出していて、本当はこの世は無色透明だと認識することが「悟り」へ向かう一つの気付きであるといえるのかもしれません。
そして、その観念を突き詰めていくと「私」とか「自分」という意識も、「ああ、妄想なんだなぁ・・・」と気が付いていきます。
注意してもらいたいのは、「~してはならない」の~に殺人、自殺を当てはめて観念だと勘違いすることなんですが、殺人と自殺は観念が大きくなって固執した状態で引き起こされる行為といえるんですね。
その要素を細分化すれば観念のみが問題ともいえないんですが、「私」があるという意識が観念だと気付いたら殺人は起きないでしょうし、「~であるべきだ」という規範に外れている自分を責めなくてもいいということと、自分の行為に罪悪感を感じるのは観念だと気付けば自殺も少なくなるでしょう。
殺人と自殺についてさらに掘り下げれば過去生やカルマがからんできますが、現時点での私の知識ではそれを詳細に説明できないのでここでは言及しませんが、いつか確信がもてたらそんなお話をさせてもらうのかもしれません。
では、今日はこのへんで。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
↓イヤ!観念はもう堪忍してぇー
心が囚われていると、やっぱり晴れ晴れしませんなぁ・・・
僕もまだこだわりみたいな心のシコリがあって、特定の人に恨みとかほんのチョッピリあるんです。
チョッピリですよ。(←自己弁護w)
まあ、チョッピリでも大きくても結局は悟ってはいないってことなんでしょうけど、その心のシコリは我執が作っているんです。
例えば、他人との意見の相違があります。
そこで論争やら争いとか批判をしたりするんですが、それは私の知識とか意見が人より優れていると思っている、または思いたいんですけど、知識や意見をとおして「私」を優位にしたい。つまり、私を守りたいと思っているんですね。
時には第三者に同意を求めたりもしてね。
けれど、これは誰でもしていて、もし、貴方が悟ったとしても行き着くその過程の中で必ずすることでしょう。
ええと、ここで注意しなくちゃいけないんですが、謙遜もまた我執の現れであるんです。
謙遜は傍から見れば慎ましい人だと人は思うのかもしれませんが、これも謙遜という態度で自分を優位に立たせたいという気持ちの表れでもあるんですね。
で、
なんでこんなことを言い出したのかと言うと、僕がとある人との会話で真理に基づいて?照らし合わせて?忠告したことにより、相手が気分を害したようで・・・
まあ、言い方も相手の身になって言っていなかったこともあるんですが、一番の原因は僕が上から目線で言い放ったことにあるんでしょうね。
つまりは、僕の知識をただ単に優位にしたかった。優越感を感じたかったんじゃあないんですが、我執で知識を押し付けたってことでしょう。
仮に僕が言ったことが本当に真理だったとしても相手に理解できない忠告は返って毒にもなりかねません。
まあ、自己反省なんですが、できるだけ相手の目線で見てあげること、それと、共感してあげることがまず一歩なのかもしれません。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
↓教官!じゃなくて、共感ッス!