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いやね、ほら、皆さん。
タイトルからしてあれでしょ、“筋肉ムキムキ―”なんて下らないギャグから始まるなんて想像できちゃうでしょ?
ってか、したでしょ?
だから、今日はそんなイージーな掴みはしないんです。
まあ、代わりにといってはなんですが、今日はモンモンとしている奥様のために旦那をムキムキにする方法を伝授しようかと・・・
あ、
ソコの人、真に受けないようにw
さて、今日は無記についてのお話です。
まあ、無記って仏教用語なのかな?ブッダが形而上学的な問答に対して沈黙を貫いた態度のことを無記と表わしているんですね。
ただ判らないから沈黙したってことではないんですよ、必要だから判断しませんよ、って態度が無記で、逆にいうと判断することによって疑問の迷宮に迷い込むからなんです。
では、何に対して無記を貫いたかというと、経文「マッジマ・ニカーヤ」でマールンクヤプッタ(←人の名です)がブッダに対してした問いになんですが、
1.世界は永遠なのか
2.世界は永遠ではないのか
3.世界は有限なのか
4.世界は無限なのか
5.アートマン(魂)と身体は一つであるか
6.アートマン(魂)と身体は二のものか
7.如来は死後存在するのか
8.如来は死後存在しないのか
9.如来は死後存在しつつ存在するのでもないのか
10.如来は死後存在するものでもなく、存在しないものでもないのか
これを仏教は十無記としています。
このマールンクヤプッタの問いに対してブッダは絶妙な答えをするんですよね、皆さんも聞いたことがあると思いますが「毒矢の喩え」でマールンクヤプッタにその疑問が無意味であることを教えるんですね。
でね、その喩えって長いんですよスンゴク。
だので、やめようと思ったんですよ、書くの。
メンドクサイし。
でもね、行数も稼げるしw皆さんは期待していないとは思いますが書いちゃうんですね、後の流れもあるし、なにより僕が書きたいので(←書きたかったのね?)
ブッダはマールンクヤプッタの問いに対して次のような喩え話をするんです。
例えば、猛毒を塗った矢に射られたとき、その人を助けたいと願う人は医者に連れて行きます。それで、「先生!旦那が毒矢に射られたんです!どうか、助けてください」って奥さんが懇願しているんですが、その先生ってトッテモ儀礼を重んじる人だったんですね、でね、こんなことを言い出すんです。
「その矢を射た者がクシャトリア(武人)であるか、バラモン(聖職者)であるか、ヴァイシャ(庶民)であるか、シュードラ(隷民)であるか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療しない」
「その矢を射た者がそんな名前で、どこの氏族なのか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療なんてしない」
「その矢を射た者が、背が高いか、低いか、中くらいか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療は絶対しない」
「その矢を射た者が、肌が黒いか、黒褐色か、金色か知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療なんて間違ってもしない」
「その矢を射た者が、どこの村に住んでいるのか、どこの町に住んでいるのか、どこの都市に住んでいるのか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療なんてしてやんない」
さらに喩えは続いて、弓と矢の種類を挙げてそれを知らないうちは矢を抜かないし、治療しないって続くんですが、長いので省略します。
で、
ブッダが言いたかったのはこの医者は藪医者なんだ!ってことではなくって、確定できない情報を並べ立てて治療をしなかったら矢の毒が体に回っている人は死に至るってことなんです。
マールンクヤプッタがブッダに質問した事柄は証明できない事柄ですよね。
魂はあるか、輪廻はあるか・・・
宇宙は有限なのか、無限なのか・・・
これらの形而上学的な考察は考察に留まり証明することはできません。
しかし、
僕は僕の私的で個人的な経験から、魂も輪廻も確信しています。
いますが、その経験を言葉にして人に伝えることはできるんですけど、他人に体験を移植して証明することはできません。
体験に導くことはできるのかもしれませんけどね。
前にも同じようなことを書いたのですが、林檎の味を言語にして他人に林檎の味を体感させることは不可能です。
僕は至高体験と呼ばれる体験をしていたりするんですが、まあ、それは至高体験の入り口に過ぎないような小さな体験でした。
でも、その後、疑問に思ったんです。
ブッダは似たような体験(次元が違うんでしょうが・・・)をしたはずなのに、何故、それに言及していないのか?と。
次に挙げるのは、あくまで僕の個人的な考察なんですが・・・
一つは、前述したように証明し得ない事柄であること。(だから、他の思想を持つジャイナ教との論争も無記を貫いています)また、証明し得ない事柄で論争したとしても悪戯に時間を費やすだけであるから。
一つは、何故人は苦しむのか?その疑問に対する応答は人の意識に問題があって、形而学上の疑問と苦しみとは直接の関係がなにもなく、従って「悟り」に無関係であること。
一つは、悟りを体感したらその疑問は払拭できますよ。
って、ことなんじゃないかと思うんです。
そして、補足するとですね、論証で納得させられない事柄を説くと万人に受け入れられなくなり、ブッダがしたかった大勢の人を自分と同じ境地に至らせることから遠ざけることになるからなんです。
それって、ブッダがしたかったことと相反することなんですね。
であるのなら、無我を体感したブッダはあらゆる人が実践できる教えを説こうと考えたはずです。
だから、証明できない神とか魂といった概念はブッダって明確には言及していないんですね。
逆に、悟りに必要であるのなら必要としている特定の人には教えてあげています。
同じような病気の症状でも、ウイルスからなのか食生活に問題があるのかによって与える薬は違ってきますし、病が複合していたらある程度静観することも必要なのかもしれないですしね。
いずれにせよ、答えの出ない事柄に頭を悩ませるより「悟り」を得る為に修行しなさいってことなんでしょう。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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