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女王様が使うムチではありません。
ましてや、ムチムチのオネーチャンでもないんです。
僕の趣向からいくと、ムチを使われるよりムチムチのオネーチャンとネチネチしたいなぁと思う今日この頃なんですよね。
最近、下ネタを考えていると妙に頭が冴えてくるガムです。
無知って聞くと“けなしている”とか、その状態を非難する言葉と一般的には捉えてしまいがちですが、仏教のいうところの無知は知識がない状態を指しているのではないんですね。
ちょっと乱暴な解説なのかもしれませんが、仏教で言うところの無知とは真理を知らない事を指していて、仏教は「無知が苦を生み出す根本的な原因である」と言っています。
さて、これから僕の内的な思索による「無知」を考察しますが、これが真理だなんて思わないように、あくまで内的な思索をして真贋を確かめてください。
無知の無は何もない状態で、喩えるのなら空の器だとします。
僕達人間は全て知識においては全くの空の状態で生まれてきますよね、ただ、ここで注意しなくてはいけないのが生命活動の根源的な情報と後天的に空の器を満たす知識と区別をしなくてはなりません。
生まれたままの状態はまったくの空の器の状態で、その空の器は成長するにつれ、僕達が知識と呼んでいる液体が徐々に器を満たしていきます。
でも、その液体の中身は人が成長する環境によって様々な彩りがあるでしょ?
地域によって国によって宗教によって、その器に注がれる液体の色は様々になるはずです。
知識って、内的な個人の意識だと思われている方が殆どだと思うのですが、僕は外的な要因に基づく知識が自分の本当の意識だと勘違いしてしまっているのだと思うんです。
色の付いた液体を器と同化させている状態ですよね。
さて、その色の付いた液体を一般的には知と呼んでいますが、この知は固定観念に色づけられた知であって、本質ではないでしょう。
じゃあ、本質の無知ってなんだ?って話になるんですが、この色の付いた液体が真実ではないということを“知らない”ってことではないでしょうか。
哲学や信仰、見解と意見のその全ては色の付いた知識であって、その知識を正しいと恣意的に判断しているのが無知の状態で、その色の付いた液体は元々は無である液体に色を付けただけだと知るのが智慧で、本質とは無であると知ることなんでしょう。
この経過を時系列でまとめると、
[空の器] → [色水が満たされた器] → [透明な水が満たされた器]
と、なります。
[透明な水が満たされた器]の意識の状態が「悟り」とか「覚醒」と呼ばれている一つの状態なのでしょうね。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
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