忍者ブログ
空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
[39]  [40]  [41]  [42]  [43]  [44]  [45]  [46]  [47]  [48]  [49
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

悟れるか、悟れないかなんて思い煩うのはやめよう。

種を撒かなければ、花は咲かない。

日々水をかけて、日に当てて、静かに待とう。

ただ、求めて知識を得よう。

そして静かに座って、自分を見つめてみよう。

生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。

byガム

 

↓知識と瞑想が悟りに至る。

 

air_rank.gif



 
banner_23.gif

 




PR
  

今ここに。

それに気が付くと、意識の束縛から離れて僕達は生命を楽しむことができる。

それを実感してみたいって?

誰がそんな馬鹿なことをいっているの?

だって、馬鹿げてるんじゃない。

いつだって、僕達は今に生きているんだし。

息を吸ってみると判る。

大きく吸う。

それを味わう。

味わいながら吐く。

余韻を楽しみながら・・・

僕達はいつだってそれをしている。

気付いていないだけで、いつでも息を楽しんでいる。

吸ってみて、吐いてみて判る。

それは、生命がこの瞬間に生きているという証。

その瞬間の連続が生命。

過去も未来もない。

只、息を味わっているのが僕達。

それが、生命。

これが、今ここに生きているというシンプルな意識。

 

生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。

byガム

 

↓この瞬間に生きているそれが、クリック!

 

air_rank.gif



 
banner_23.gif

 

 

 


  

いやね、こんなこというと何ですが僕の小さな頃の夢って僧侶になることだったんです。

なんで僧侶になりたいと思ったかってーと、良寛和尚のお話を聞いてから「僕もあんな人になりたい!」って思ったからなんですね。

今考えると、ピュアだったんだよなぁ・・・

まあ、良寛さんのお話だけじゃなくって、チョットした体験もあってそう思うに至ったんですけどね。

そんなピュアな心を持った少年は今や・・・

ジョスィ高生の生足に見とれて事故りそうになった中年オヤジだったりします。

 

フッ・・・

 

さて、本題に戻りましょうか。

僕の仏教観なんですが、普通?の人とチョットだけ違います。

まず、殆どの人が仏教を宗教として捉えていると思いますが、僕は仏教って宗教のカテゴリーに入らないんじゃないかって考えているんです。

ところで、皆さんの仏教観ってどんなでしょう?

お葬式にお経をあげているのが仏教じゃないですか?

まあ、実際のところお葬式以外に仏教に触れる機会ってあんまりないのが実情でしょう。

求道して座禅に参加している人達は違うのかもしれませんけれど。

仏(ブッダ)は目覚めた人という意味なんですが、仏教という言葉の意味はそのまま目覚めた人の教えってことで、悟りを開いた人の教えであり、悟りに至る為の教えですよね。

それがなぜか日本人の仏教観って大仏や阿弥陀如来を拝んだりとか観音様にお願いしたり、意味も判らずお経を唱えているだけの宗教・・・になってしまっています。

シッダールタ(パーリ語ではシダッタ)と呼ばれたブッダは、何故なのか自らの言葉や思想を文字にするのを禁止しています。

皆さんは何故だと思います?

定型された文字にするとその文字から多くの意味を読み取ることが可能になりますよね、それと、一人一人の生い立ちとか物の見方も違っていて、人一人を悟らせるのにマニュアル化ができるかと言うと違うんじゃないかな。

僕が思うに、夫々考えも身分も違う人達、その個性も違う一人一人に必要な薬(応病与薬)をする、そして、それができる人材を育てたかったんじゃないかと思うんです。

区別と分別をしているのは只意識であるのなら、宗教というカテゴリーも分別する意識を与えてしまい、今、仏教と呼ばれる宗教はブッダを特別な存在として扱い、それを超えることはできないといい、ブッダが想定していない区別と段階を生み出してもいます。(キリスト教も然り)

ブッダは私を越えるなって、言ったのでしょうか?

ブッダがしたかった事って、一人一人が唯一無二の存在であり、それを形成している世界が「私」であると知らせたかったんじゃないでしょうか。

ブッダはこの世の人達は自らの右の手で左の手を叩いていると、知っていたのだと思うんです。

仏教は月(真理)を指す指であって、ブッダを信奉する宗教ではなく悟りに至らせる羅針盤(ツール)である。

これが、僕の仏教観です。

 

生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。

byガム

 

↓これが、月を指す指であるので・・・ポチットして下さい

air_rank.gif


 

 
banner_23.gif

 


  

いやね、ほら、皆さん。

タイトルからしてあれでしょ、“筋肉ムキムキ―”なんて下らないギャグから始まるなんて想像できちゃうでしょ?

ってか、したでしょ?

だから、今日はそんなイージーな掴みはしないんです。

まあ、代わりにといってはなんですが、今日はモンモンとしている奥様のために旦那をムキムキにする方法を伝授しようかと・・・

あ、

ソコの人、真に受けないように

 

さて、今日は無記についてのお話です。

まあ、無記って仏教用語なのかな?ブッダが形而上学的な問答に対して沈黙を貫いた態度のことを無記と表わしているんですね。

ただ判らないから沈黙したってことではないんですよ、必要だから判断しませんよ、って態度が無記で、逆にいうと判断することによって疑問の迷宮に迷い込むからなんです。

では、何に対して無記を貫いたかというと、経文「マッジマ・ニカーヤ」でマールンクヤプッタ(←人の名です)がブッダに対してした問いになんですが、

1.世界は永遠なのか

2.世界は永遠ではないのか

3.世界は有限なのか

4.世界は無限なのか

5.アートマン(魂)と身体は一つであるか

6.アートマン(魂)と身体は二のものか

7.如来は死後存在するのか

8.如来は死後存在しないのか

9.如来は死後存在しつつ存在するのでもないのか

10.如来は死後存在するものでもなく、存在しないものでもないのか

これを仏教は十無記としています。

このマールンクヤプッタの問いに対してブッダは絶妙な答えをするんですよね、皆さんも聞いたことがあると思いますが「毒矢の喩え」でマールンクヤプッタにその疑問が無意味であることを教えるんですね。

でね、その喩えって長いんですよスンゴク。

だので、やめようと思ったんですよ、書くの。

メンドクサイし。

でもね、行数も稼げるし皆さんは期待していないとは思いますが書いちゃうんですね、後の流れもあるし、なにより僕が書きたいので(←書きたかったのね?)

 

ブッダはマールンクヤプッタの問いに対して次のような喩え話をするんです。

 

例えば、猛毒を塗った矢に射られたとき、その人を助けたいと願う人は医者に連れて行きます。それで、「先生!旦那が毒矢に射られたんです!どうか、助けてください」って奥さんが懇願しているんですが、その先生ってトッテモ儀礼を重んじる人だったんですね、でね、こんなことを言い出すんです。

 

「その矢を射た者がクシャトリア(武人)であるか、バラモン(聖職者)であるか、ヴァイシャ(庶民)であるか、シュードラ(隷民)であるか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療しない」

 

「その矢を射た者がそんな名前で、どこの氏族なのか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療なんてしない」

 

「その矢を射た者が、背が高いか、低いか、中くらいか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療は絶対しない」

 

「その矢を射た者が、肌が黒いか、黒褐色か、金色か知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療なんて間違ってもしない」

 

「その矢を射た者が、どこの村に住んでいるのか、どこの町に住んでいるのか、どこの都市に住んでいるのか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないし、治療なんてしてやんない」

 

さらに喩えは続いて、弓と矢の種類を挙げてそれを知らないうちは矢を抜かないし、治療しないって続くんですが、長いので省略します。

で、

ブッダが言いたかったのはこの医者は藪医者なんだ!ってことではなくって、確定できない情報を並べ立てて治療をしなかったら矢の毒が体に回っている人は死に至るってことなんです。

マールンクヤプッタがブッダに質問した事柄は証明できない事柄ですよね。

魂はあるか、輪廻はあるか・・・

宇宙は有限なのか、無限なのか・・・

これらの形而上学的な考察は考察に留まり証明することはできません。

しかし、

僕は僕の私的で個人的な経験から、魂も輪廻も確信しています。

いますが、その経験を言葉にして人に伝えることはできるんですけど、他人に体験を移植して証明することはできません。

体験に導くことはできるのかもしれませんけどね。

前にも同じようなことを書いたのですが、林檎の味を言語にして他人に林檎の味を体感させることは不可能です。

僕は至高体験と呼ばれる体験をしていたりするんですが、まあ、それは至高体験の入り口に過ぎないような小さな体験でした。

でも、その後、疑問に思ったんです。

ブッダは似たような体験(次元が違うんでしょうが・・・)をしたはずなのに、何故、それに言及していないのか?と。

次に挙げるのは、あくまで僕の個人的な考察なんですが・・・

 

一つは、前述したように証明し得ない事柄であること。(だから、他の思想を持つジャイナ教との論争も無記を貫いています)また、証明し得ない事柄で論争したとしても悪戯に時間を費やすだけであるから。

 

一つは、何故人は苦しむのか?その疑問に対する応答は人の意識に問題があって、形而学上の疑問と苦しみとは直接の関係がなにもなく、従って「悟り」に無関係であること。

 

一つは、悟りを体感したらその疑問は払拭できますよ。

 

って、ことなんじゃないかと思うんです。

そして、補足するとですね、論証で納得させられない事柄を説くと万人に受け入れられなくなり、ブッダがしたかった大勢の人を自分と同じ境地に至らせることから遠ざけることになるからなんです。

それって、ブッダがしたかったことと相反することなんですね。

であるのなら、無我を体感したブッダはあらゆる人が実践できる教えを説こうと考えたはずです。

だから、証明できない神とか魂といった概念はブッダって明確には言及していないんですね。

逆に、悟りに必要であるのなら必要としている特定の人には教えてあげています。

同じような病気の症状でも、ウイルスからなのか食生活に問題があるのかによって与える薬は違ってきますし、病が複合していたらある程度静観することも必要なのかもしれないですしね。

いずれにせよ、答えの出ない事柄に頭を悩ませるより「悟り」を得る為に修行しなさいってことなんでしょう。

 

生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。

byガム

 

↓押すか押さないか・・・そんな形而上学的な悩みより、スッキリ押そうよ。

air_rank.gif

 
banner_23.gif

 

カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
(02/28)
(11/15)
(02/21)
(02/21)
プロフィール
HN:
ガム(我無)
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
忍者ブログ * [PR]