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皆さん、占いはお好きですか?
皆、好きですよねー
|電柱|ー ̄)
フフッ。
僕はね、そんな幼稚なもの信じません。
いや、本当だって!
昔、タロット占いの本をカーチャンに強請って買ってもらったことなんてないし、
携帯の占いサイトにはまって、一日中携帯いじっていたことなんてないんだから!
だから、本当なんだって!
・・・
白状します。
好きでつ・・・
本当は意外と占い好きなのかもしれません。
実際w
でも、ちと、まってくだせい。
占い好きで単に血液占いとか星座占いとか趣味で見ているぶんにはいいのかもしれませんが、占いの落とし穴に入り込むと大変なことになりますよ!
信じないとアナタ!地獄に落ちるわよ!
なんて、いう人もいますから・・・
ま、それは冗談ですけどね。
占いつーか、リーディングでもそうなんですが、本当に的確に当たる占いはチョット注意が必要なんです。
ええ!
本当に当たる占い師だったら、役に立つジャン!
っていう方もいらっしゃると思います。
でも、本当に当たるから厄介なんですよw
長引く不況にさらされている昨今、未来に不安を抱えている人が大勢かと思います。
まあ、不安を抱えているのが当たり前なのかもしれませんが、不安を解消する為に占いやらスピリチュアルリーディングやら受けちゃったりするんですけど、それが毒になる可能性もあるんです。
まず一つ、自分で成すということを放棄する可能性があります。
未来が見えたら、それまでの過程が変わる、つまり、努力を放棄する可能性があります。
もう一つ、占いが当たることによって一時的な不安の解消にはなりますが、依存しませんか?
麻薬中毒と同じ状態になる可能性もありますよね。
それともう一つ、占いで読み取った未来は痛み止めにしかなりません。
不安に対する“痛み止め”でしかないですよね。
不安を無くすのなら不安を生じさせない根本的な治療が必要なのに、通院して痛み止めしかもらえない状態になり、いつか、痛み止めも効かなくなりませんかね。
・・・
占い師の方々を非難しているんじゃぁないんですよ。
過去の経験から迷っている人を救いたいって道義で占いをしている方もいるでしょうし。
でも、僕がいっている三つの毒の可能性も否めませんよね、不安を解消したいのなら根本的に不安を作る原因はなんなのか知って、その根を摘まないとまた不安が再発しますから。
実はその不安を作っているのは貴方の意識なんです。
そこを根本的に治療しないと不安から不安が生まれ、スパイラルループからは離れられません。
根本的な治療はその不安を作っているのは意識で、妄想をやめれば止まるってことなんですよ。
では、今日のところはここらへんにして、占いサイトへ・・・
(´ー`)
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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最近、脳みそがドロドロになりかけているガムです。
柔らかくする前にすでに溶けているような気がするんでつ・・・
さて、そんなどーでもいいことはさておき、僕達って得た知識にたいして「思いこみ」していて、これが正しいんだ!って確たる根拠もないのに間違った知識を自慢げに話しちゃったりします。
ワタクシごとですが、僕もそんなことが沢山ありましたよ、ええ。
一例をあげると、仏教に関してなんですが、僕は若い頃ブッダがサンスクリット語を話していたと思い込んでいたんですね、けれど、よーく調べるとパーリ語が当時のブッダが喋っていた言語に近いそうなんです。(※ブッダもサンスクリット語は学んだみたいです。)
そして、そのパーリ語もそのものズバリではなくって、古代のインド言語の方言である古代マガタ語を話していたと推定されるそうなんですね。
これね、調べてみて思ったんですよ、おぼろげな知識なんてあてにならないし、それをまことしやかに話すのは自制しなくっちゃなぁ・・・って。
この一例に関していえば、結果としては「推定」されるのみでコレダ!という確定はできませんよね。
そうそう、蛇足なんですが、上座部仏教はパーリ語経典を聖典としているんですけど、パーリ語って固有の文字を持たない?言語なんだそうです。南伝仏教と呼ばれる上座部仏教はそれぞれの母国語で翻訳して伝えているんですね。
さて、人は固定観念や知識を正しいと思い込んでしまっていて、一度得た知識の検証をなかなかしようとはしませんし、名の知れた人のいっていることを鵜呑みにしてしまってもいます。
この状態だと新たな発見、至っては真理の発見への阻害となる可能性もあると思いませんか?
やわらか頭で、思い込みを外してみれば新しい発見も生まれますし、なにより自由な発想がまた新鮮な知識の発見に至らしめるのかもしれませんよね。
それと、宗教に関してですが、例をあげると「仏教」と「キリスト教」に関して、まあ、他の古くからある既存宗教に関してもそれが言えるんですけど、仏教もキリスト教も長い年月を経て各国に伝わりその伝播の中での異言語への翻訳(これは、かなりの頻度で行われています。)、封建国家での作為的な利用、教徒による別解釈、加筆修正等々・・・
この他にも、時代背景やらも加味してその時代に即した新解釈や新宗派も生まれたんでしょうね。
ブッダ=仏教、イエス=キリスト教ではないような気がするんですよ、ブッダもイエスも瞑想をとおして真理に到達していて、普遍的な真理を飾りのない素朴な言葉で語ったんだと思うんです。
まあ、これは僕の憶測の域を出ないんですけど・・・
僕は決して宗教を否定している訳ではないんです。
宗教、宗派の中でドグマや固定観念に縛られず“やわらか頭”でブッダやイエスと呼ばれているマスター達がどう考えていたのかを感じてみて欲しいんです。
僕もご他聞にもれず、宗教関係や哲学の本には量は多くないですが触れていはいます。
真理への到達に必要な情報って聖典の中に沢山あることも確かなんですが、違和感のある規則や今の時代に合わない教えもあって、聖典に書いてあるから“絶対に正しいんだ”なんてことはありません。
皆さんも是非、思い込みを外して“やわらか頭”で「覚醒」へと、その先にある「悟り」へと思いを巡らせてみてください。
では、今日はこのへんで。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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女王様が使うムチではありません。
ましてや、ムチムチのオネーチャンでもないんです。
僕の趣向からいくと、ムチを使われるよりムチムチのオネーチャンとネチネチしたいなぁと思う今日この頃なんですよね。
最近、下ネタを考えていると妙に頭が冴えてくるガムです。
無知って聞くと“けなしている”とか、その状態を非難する言葉と一般的には捉えてしまいがちですが、仏教のいうところの無知は知識がない状態を指しているのではないんですね。
ちょっと乱暴な解説なのかもしれませんが、仏教で言うところの無知とは真理を知らない事を指していて、仏教は「無知が苦を生み出す根本的な原因である」と言っています。
さて、これから僕の内的な思索による「無知」を考察しますが、これが真理だなんて思わないように、あくまで内的な思索をして真贋を確かめてください。
無知の無は何もない状態で、喩えるのなら空の器だとします。
僕達人間は全て知識においては全くの空の状態で生まれてきますよね、ただ、ここで注意しなくてはいけないのが生命活動の根源的な情報と後天的に空の器を満たす知識と区別をしなくてはなりません。
生まれたままの状態はまったくの空の器の状態で、その空の器は成長するにつれ、僕達が知識と呼んでいる液体が徐々に器を満たしていきます。
でも、その液体の中身は人が成長する環境によって様々な彩りがあるでしょ?
地域によって国によって宗教によって、その器に注がれる液体の色は様々になるはずです。
知識って、内的な個人の意識だと思われている方が殆どだと思うのですが、僕は外的な要因に基づく知識が自分の本当の意識だと勘違いしてしまっているのだと思うんです。
色の付いた液体を器と同化させている状態ですよね。
さて、その色の付いた液体を一般的には知と呼んでいますが、この知は固定観念に色づけられた知であって、本質ではないでしょう。
じゃあ、本質の無知ってなんだ?って話になるんですが、この色の付いた液体が真実ではないということを“知らない”ってことではないでしょうか。
哲学や信仰、見解と意見のその全ては色の付いた知識であって、その知識を正しいと恣意的に判断しているのが無知の状態で、その色の付いた液体は元々は無である液体に色を付けただけだと知るのが智慧で、本質とは無であると知ることなんでしょう。
この経過を時系列でまとめると、
[空の器] → [色水が満たされた器] → [透明な水が満たされた器]
と、なります。
[透明な水が満たされた器]の意識の状態が「悟り」とか「覚醒」と呼ばれている一つの状態なのでしょうね。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
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急に作風の変わったガムです。
うーん、なんだか今まで自分が書いてきた記事って、自分を頭良く見せようってスケスケ・・・いや違った、ミエミエなんですよねぇ・・・
それって我欲で書いてるんじゃないかって思い初めて、あるがままの等身大の自分を認めないと自分で作った虚像に「コノ、キョゾウ!」なんていわれる気がしてるんです。
そんなオヤジギャグ炸裂な僕はもう、40代の半ばに差し掛かってる訳で・・・
ああ、そこの貴方逃げないでぇー
・・・
そんなことで、今日も淡々と進めますw
以前から同じ事を言い続けているんだけれど、シツコイって言われるかも知れませんが話が続かないので言っちゃいますw
私達は意識に問題があって、社会にも人にも環境にも問題は実はありません。
逆説的に言いますと、個夫々の意識に問題があるんだけれど、それを規範にして社会が形成されているので、社会自体が歪んだ構造になっているといってもいいのかもしれませんね。
人って、それぞれの育った環境によって価値観が違っていて、同じ物なのにそれを見て人によって感じる価値観は違っています。
何故だと思います?
これが起きるのは今まで成長してきた環境が夫々違うだけで、成長する過程で交流する人の観念を受け継いだり、メディアや本等を媒介として情報を仕入れていて、その情報を元にして思索を巡らせているからなんです。
端的に言うと妄想しちゃってるんですよ、人って。
人夫々の価値観の違いを受け入れて、心を広くして相手を認めようって言い方もできるんですが、それでは妄想の根源を絶てないですよね。
人夫々が持つ価値観は過去に学習した単なる情報であって、元々価値が付いていない物に情報を元にした価値観を物に付与しているのが真実です。
例えば、宝石なんですが、まあ、見た目に綺麗なので価値があると思うのかもしれませんが、宝石の価値はその価値を学ばないと「価値がある物」という認識は持てないでしょ?
僕は宝石より今ある生命のほうが尊いと思いますが、実はこれも僕の価値観なんです。
価値観はその人が過去に学習した情報なんですが、人って自分が持つ価値観を優位にしたがる「したがりやさん」なんですよ、
チョット、Hな表現ですが(/∀\*))キャハ♪"・・・
価値観は情報を元にしたその個人が持つ固有の「観念」で、それを「したがりやさん」の自我(エゴ)が補強強化しているんです。
物自体は元々は無なのに、意識が有だと思い込んでいて価値を見出してしまい、「したがりやさん」のエゴがそれを増長して争いに発展させたりもします。
僕はこのことに気が付いて、オレって一体なにしてたんだぁ?そんな感じになりました。
だって、無である物に価値を見出して人を貶したり貶めたり平気でしてましたもん。
今、考えると本当に愚かだったよなぁ・・・
自分が無価値であるような気がしていたたまれなかったんです・・・
おや?
ちとまてよ?
自分が無価値ってそれも妄想じゃぁ・・・
そうなんですw
無価値って言っているのは、僕の意識が妄想を起こしているだけなんですw
面白いでしょw
無価値って言葉にもなんの価値も付いていないんですよ、普通の人は悪いほうに捉えますけれどね。
貴方は無価値ですねぇ・・・って言われたら殆どの人が怒るんでしょうね。
でも、僕は無価値と言われてもさほど気にはなりません。
なぜって、無価値という価値観が真理に近いからなんです。
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