空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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仏教研究 #5
※浅学ですので、激しい突っ込みはご遠慮ください(笑)
しかし、間違いがあれば書き込みしていただくと助かります。
また、私の我執や我見が入っていることは否定できない事実ですので、鵜呑みにはせずに疑問に思ったら自分自身の心で考察してください。
また、テ-ラワ-ダ仏教(上座部)をここでは一応、研究しています。
#5-1六処
六処とは、人という生命が外界の世界と接触する門(扉、道)のことを指し、境界線という呼び方もできます。
外界(世間)と受動的に接触する六門と、外界(世間)と能動的に接触する三門とがあります。
※処とは門、扉、道のことを指し、接触場所とか接続場所と認識でき、知識の入る場所でもあり出て行く場所です。
#5-2六門
外界の世間を感受する部分が六門です。
様々な外界の出来事を認識し感受するためには、眼・耳・鼻・舌・身・意の六門が必要となり、これが外界でおきる現象に対して門となり、受動的に縁(原因)が発生する扉になります。
#5-3三門
外界の世間に働きかけるのは、身と口と意(身門・口門・意門)の三門です。
三門は外界へと働きかける扉となり、働きかけることによって能動的な縁(原因)が発生する扉になります。
#5-4内処と外処
内処は私という主観に属する門です。それに対し、外処は主観に属する門に対応した客体を指します。
内処は認識するもの、知覚するもので、外処とは認識されるもの、知覚されるものという意味となります。
#5-5六所縁
外界の現象を認識する客体のことを指します。
心が引き付けられるもの、心を引き付けるものと表現できます。
六所縁の種類は色・声(音)・香・味・触・法(ダンマ)に分類されます。
#5-6六識
六処から入る情報を認識することを六識といいます。
すなわち、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・体で触れる、心を通じての識は心で分かるのです。
#5-7触(六処と六所縁と六識の関係)
六処と六所縁が触れて、六識が生じます。
しかし、処と所縁が揃えば識が生じるのではなく、関心や焦点を合わすことにより識が生じます。
例えば、電車の中で、ボンヤリ考えことをしてたら、
近くに座っていた懐かしい友人の顔は認識できません。
認識が生じるのはこの三つの構成要素が揃って初めて生じ、これを触といいます。
やさしくいうと、触は認識することで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六種類があります。
#5-8受
触に続いて生じる感覚は受となります。所縁を認識したことに対する感覚を受といい、つまり、快いとか不快とか認識した所縁に対する何ならかの感覚を指します。
感覚の質から分類しますと、苦受・楽受・不苦不楽(捨)の三つになり、
さらに詳しく分類すると、楽(身体の快適)・苦(身体の不快)・喜(心の快適)・憂(心の不快)・捨(楽も苦も感じない)の五つとなります。
#5-8認識の過程(受に至る過程)
処(認識の扉・門)+所縁(知られる客体)+識(知識)=触(認識) → 受(触に対する感覚)
#5-9想
六処で認識(受)した情報を区別する働きを想といいます。たとえば、白い二匹のウサギを区別するには違いをよく探さないといけません。その違いを探す働きが想です。
#5-10尋
想で区別した情報を熟慮、思慮することを指します。
#5-11妄想念が起こるまでの過程
処(門)+所縁+識 = 触 → 受 → 想 → 尋 → 妄想、様々な妄想念
#5-12六処を知ることの意義
六処を知ると、苦楽が発生する過程と煩悩が発生する過程が理解できます。
受が発生すると、快い感覚を求めてさらに欲しくなり(渇愛)、手に出来なくなると執着(取)してしまい、さらにその快い感覚を生む所縁を支配したいと考えて、求めるために行いをします。逆に、不快さ(苦受)が生じると、逃れたいとか、憎しみ嫌いが増長され破壊や争いに繋がっていきます。
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byガム
※浅学ですので、激しい突っ込みはご遠慮ください(笑)
しかし、間違いがあれば書き込みしていただくと助かります。
また、私の我執や我見が入っていることは否定できない事実ですので、鵜呑みにはせずに疑問に思ったら自分自身の心で考察してください。
また、テ-ラワ-ダ仏教(上座部)をここでは一応、研究しています。
#5-1六処
六処とは、人という生命が外界の世界と接触する門(扉、道)のことを指し、境界線という呼び方もできます。
外界(世間)と受動的に接触する六門と、外界(世間)と能動的に接触する三門とがあります。
※処とは門、扉、道のことを指し、接触場所とか接続場所と認識でき、知識の入る場所でもあり出て行く場所です。
#5-2六門
外界の世間を感受する部分が六門です。
様々な外界の出来事を認識し感受するためには、眼・耳・鼻・舌・身・意の六門が必要となり、これが外界でおきる現象に対して門となり、受動的に縁(原因)が発生する扉になります。
#5-3三門
外界の世間に働きかけるのは、身と口と意(身門・口門・意門)の三門です。
三門は外界へと働きかける扉となり、働きかけることによって能動的な縁(原因)が発生する扉になります。
#5-4内処と外処
内処は私という主観に属する門です。それに対し、外処は主観に属する門に対応した客体を指します。
内処は認識するもの、知覚するもので、外処とは認識されるもの、知覚されるものという意味となります。
#5-5六所縁
外界の現象を認識する客体のことを指します。
心が引き付けられるもの、心を引き付けるものと表現できます。
六所縁の種類は色・声(音)・香・味・触・法(ダンマ)に分類されます。
#5-6六識
六処から入る情報を認識することを六識といいます。
すなわち、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・体で触れる、心を通じての識は心で分かるのです。
#5-7触(六処と六所縁と六識の関係)
六処と六所縁が触れて、六識が生じます。
しかし、処と所縁が揃えば識が生じるのではなく、関心や焦点を合わすことにより識が生じます。
例えば、電車の中で、ボンヤリ考えことをしてたら、
近くに座っていた懐かしい友人の顔は認識できません。
認識が生じるのはこの三つの構成要素が揃って初めて生じ、これを触といいます。
やさしくいうと、触は認識することで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六種類があります。
#5-8受
触に続いて生じる感覚は受となります。所縁を認識したことに対する感覚を受といい、つまり、快いとか不快とか認識した所縁に対する何ならかの感覚を指します。
感覚の質から分類しますと、苦受・楽受・不苦不楽(捨)の三つになり、
さらに詳しく分類すると、楽(身体の快適)・苦(身体の不快)・喜(心の快適)・憂(心の不快)・捨(楽も苦も感じない)の五つとなります。
#5-8認識の過程(受に至る過程)
処(認識の扉・門)+所縁(知られる客体)+識(知識)=触(認識) → 受(触に対する感覚)
#5-9想
六処で認識(受)した情報を区別する働きを想といいます。たとえば、白い二匹のウサギを区別するには違いをよく探さないといけません。その違いを探す働きが想です。
#5-10尋
想で区別した情報を熟慮、思慮することを指します。
#5-11妄想念が起こるまでの過程
処(門)+所縁+識 = 触 → 受 → 想 → 尋 → 妄想、様々な妄想念
#5-12六処を知ることの意義
六処を知ると、苦楽が発生する過程と煩悩が発生する過程が理解できます。
受が発生すると、快い感覚を求めてさらに欲しくなり(渇愛)、手に出来なくなると執着(取)してしまい、さらにその快い感覚を生む所縁を支配したいと考えて、求めるために行いをします。逆に、不快さ(苦受)が生じると、逃れたいとか、憎しみ嫌いが増長され破壊や争いに繋がっていきます。
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byガム
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仏教研究 #4
※浅学ですので、激しい突っ込みはご遠慮ください(笑)
しかし、間違いがあれば書き込みしていただくと助かります。
また、私の我執や我見が入っていることは否定できない事実ですので、鵜呑みにはせずに疑問に思ったら自分自身の心で考察してください。
また、テ-ラワ-ダ仏教(上座部)をここでは一応、研究しています。
#4-1五蘊(心と体=人)
五蘊とは五つの塊(蘊)という意味で、肉体と感覚器官、
意識の塊が仏教では「人」とか「有情」と定義しています。
例えば、自動車は様々な部品の集まりを組み立てて自動車と定義していますが、知識が自動車と定義しているのみで、自動車という名称は原始から決まっていた訳ではありません。人の知識がはじめて自動車と認識出来るようなってから自動車と認識できます。その自動車も元を正せば様々な構成物の塊に過ぎず、その構成物一つでは自動車足りえず、自動車もその構成物一つが欠けたら自動車足りえません。
◇色(蘊)・・・身体と身体の全ての行為、肉体である体とその生命活動を指します。
◇受(蘊)・・・五つの感覚機能(目・鼻・舌・耳・体)が外界の現象を感じ取ることを指します。例えばお線香の匂いを感じ取ることなのですが、簡単に言うと感受作用のことです。分解して考えますと、鼻がお線香の匂いを吸い込んで、脳で「匂い」と認識することになります。ここではまだ「匂い」と認識しているだけでなんの「匂い」なのかは判別できません。
◇想(蘊)・・・概念、あるいは想念のことを指します。例えば「私は男だ」「私は女だ」といった知識に基づいた想念です。「私は社長で偉い」とか「足が速い」とかそういった表象作用のことです。受(蘊)の例から見ると、「お線香の匂い」の「匂い」が「お線香」であることを知識から認識する作用を指します。
◇行(蘊)・・・意思の作用のことを指します。例えば咽が渇いて「水が飲みたい」と想う作用で、~したいと想う意思作用を総括して行蘊と呼びます。
◇識(蘊)・・・受・想・行を総括した構成である識(蘊)を指します。
受・想・行は認識作用の過程を分類したもので、「識」にまとめられます。例えば花を見るのが受で、その花が薔薇だったとすると、薔薇の花だと知識から認識するのが想です。花を見て、「綺麗な赤い薔薇、私の好きな花」と想うのは受と想の作用となり、「種を撒いて赤い薔薇を育てたい」という意思作用が受と想と行が蘊となった識の作用です。
上記の五つの作用が人となります。先に述べた自動車の例と同じで人も構成物の塊に過ぎず、その構成物の優劣はありません。構成物の一つだけ取り出しても人足りえず、欠けていても人足りえないからです。そこに優先される順位はありませんが、仏教では便宜的に心を優先させています。
#4-2五取蘊
「比丘たちよ。これが苦聖諦である。生も苦である。老も苦である。病も苦である。死も苦である。憎い人に会うのも苦である。可愛い人々と離れるのも苦である。求めるものを得ないのも苦である。要するに五取蘊は苦である。」
※取とは、執着すること指します。
ブッダは五蘊に執着すること自体が苦(ドゥッカ)であると説きます。
※苦(ドゥッカ)とは、不安定、不安、悩みのことを指します。
#4-3五蘊を知ることの意義
人は各五蘊がそれぞれ依存しあう形で存在し、それぞれが関連し合い人を形成しています。よって、五蘊はそれぞれ単独では存在できず、人もそれがないと存在できません。この関係性において優劣とか区別は存在し得ず、五蘊も相互依存の中でしか存在し得ないのなら、固定された自我(そのものの自立性、実体)は存在しないこととなります。
五蘊を知ることにより、諸法無我、業(カンマ)の原理を理解することへの連絡となります。
byガム
※浅学ですので、激しい突っ込みはご遠慮ください(笑)
しかし、間違いがあれば書き込みしていただくと助かります。
また、私の我執や我見が入っていることは否定できない事実ですので、鵜呑みにはせずに疑問に思ったら自分自身の心で考察してください。
また、テ-ラワ-ダ仏教(上座部)をここでは一応、研究しています。
#4-1五蘊(心と体=人)
五蘊とは五つの塊(蘊)という意味で、肉体と感覚器官、
意識の塊が仏教では「人」とか「有情」と定義しています。
例えば、自動車は様々な部品の集まりを組み立てて自動車と定義していますが、知識が自動車と定義しているのみで、自動車という名称は原始から決まっていた訳ではありません。人の知識がはじめて自動車と認識出来るようなってから自動車と認識できます。その自動車も元を正せば様々な構成物の塊に過ぎず、その構成物一つでは自動車足りえず、自動車もその構成物一つが欠けたら自動車足りえません。
◇色(蘊)・・・身体と身体の全ての行為、肉体である体とその生命活動を指します。
◇受(蘊)・・・五つの感覚機能(目・鼻・舌・耳・体)が外界の現象を感じ取ることを指します。例えばお線香の匂いを感じ取ることなのですが、簡単に言うと感受作用のことです。分解して考えますと、鼻がお線香の匂いを吸い込んで、脳で「匂い」と認識することになります。ここではまだ「匂い」と認識しているだけでなんの「匂い」なのかは判別できません。
◇想(蘊)・・・概念、あるいは想念のことを指します。例えば「私は男だ」「私は女だ」といった知識に基づいた想念です。「私は社長で偉い」とか「足が速い」とかそういった表象作用のことです。受(蘊)の例から見ると、「お線香の匂い」の「匂い」が「お線香」であることを知識から認識する作用を指します。
◇行(蘊)・・・意思の作用のことを指します。例えば咽が渇いて「水が飲みたい」と想う作用で、~したいと想う意思作用を総括して行蘊と呼びます。
◇識(蘊)・・・受・想・行を総括した構成である識(蘊)を指します。
受・想・行は認識作用の過程を分類したもので、「識」にまとめられます。例えば花を見るのが受で、その花が薔薇だったとすると、薔薇の花だと知識から認識するのが想です。花を見て、「綺麗な赤い薔薇、私の好きな花」と想うのは受と想の作用となり、「種を撒いて赤い薔薇を育てたい」という意思作用が受と想と行が蘊となった識の作用です。
上記の五つの作用が人となります。先に述べた自動車の例と同じで人も構成物の塊に過ぎず、その構成物の優劣はありません。構成物の一つだけ取り出しても人足りえず、欠けていても人足りえないからです。そこに優先される順位はありませんが、仏教では便宜的に心を優先させています。
#4-2五取蘊
「比丘たちよ。これが苦聖諦である。生も苦である。老も苦である。病も苦である。死も苦である。憎い人に会うのも苦である。可愛い人々と離れるのも苦である。求めるものを得ないのも苦である。要するに五取蘊は苦である。」
※取とは、執着すること指します。
ブッダは五蘊に執着すること自体が苦(ドゥッカ)であると説きます。
※苦(ドゥッカ)とは、不安定、不安、悩みのことを指します。
#4-3五蘊を知ることの意義
人は各五蘊がそれぞれ依存しあう形で存在し、それぞれが関連し合い人を形成しています。よって、五蘊はそれぞれ単独では存在できず、人もそれがないと存在できません。この関係性において優劣とか区別は存在し得ず、五蘊も相互依存の中でしか存在し得ないのなら、固定された自我(そのものの自立性、実体)は存在しないこととなります。
五蘊を知ることにより、諸法無我、業(カンマ)の原理を理解することへの連絡となります。
byガム
明けましておめでとうございます。
魂は転生を繰り返した存在で、
その転生の経験により個性があるみたいですね。
魂も転生により流転変化しながら、宇宙誕生と破壊を何度も経験しています。
真我(ア-トマ)とは梵(ブラ-フマ)から生まれ、
転生を繰り返してやがて梵(ブラ-フマ)へお里帰りしたりします。
この流転変化の中では固定された我(ア-トマ)を見つけることは不可能なんですね、
つまり、魂も私達が成長することによりその影響を受け続け、
他の魂との相互の関係にも影響されるので、魂は永遠に成長を続けますよね。
そして、梵(ブラ-フマ)へのお里帰りが魂のリセット。
リセットされた魂はまた転生を繰り返し、またまた父母の元に帰っていきます。
前述した魂の旅ともいえる流転変化の円環の中には固定された我はありません。
で、私のような凡夫は魂との繋がりを「思い出せない」でいるわけです(笑)
その繋がりは全ての人の潜在意識の中に眠っています。
これは私の想像ですけど、
クンダリ-ニの覚醒や神秘体験は魂への扉の所在を知るきっかけに過ぎず、
扉を開けるには個人の意識と行いによると思います。
扉を見つけることと、扉の鍵は総合的な意識に隠されていて、
心が透明なんだと認識できれば、鍵は私から私へと手渡されます。
その鍵を握るのが、心です。
心の中の善心と悪心が不ニであり元極であることを知ることと、
鍵のありかへ進むバロメーターは心が生み出す怒り憎しみ苦しみと差別です。
心の中にある鍵への案内人はネガティブな私達自身の意識で、
心の天秤を零(ゼロ)にしてネガティブな意識を消滅すれば、心にしまっておいた鍵はみつかり、
心(私)は扉の向こう側にある光の世界へと旅立つのです。
今年一年が、皆さんが心の鍵をみつけて、未来へと切り拓く年になりますように。
精神世界ランキングに参加しています。
遠隔ヒーリング体験者を募集しています(無料)
希望される方はカテゴリーよりセッションをお読みください。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
魂は転生を繰り返した存在で、
その転生の経験により個性があるみたいですね。
魂も転生により流転変化しながら、宇宙誕生と破壊を何度も経験しています。
真我(ア-トマ)とは梵(ブラ-フマ)から生まれ、
転生を繰り返してやがて梵(ブラ-フマ)へお里帰りしたりします。
この流転変化の中では固定された我(ア-トマ)を見つけることは不可能なんですね、
つまり、魂も私達が成長することによりその影響を受け続け、
他の魂との相互の関係にも影響されるので、魂は永遠に成長を続けますよね。
そして、梵(ブラ-フマ)へのお里帰りが魂のリセット。
リセットされた魂はまた転生を繰り返し、またまた父母の元に帰っていきます。
前述した魂の旅ともいえる流転変化の円環の中には固定された我はありません。
で、私のような凡夫は魂との繋がりを「思い出せない」でいるわけです(笑)
その繋がりは全ての人の潜在意識の中に眠っています。
これは私の想像ですけど、
クンダリ-ニの覚醒や神秘体験は魂への扉の所在を知るきっかけに過ぎず、
扉を開けるには個人の意識と行いによると思います。
扉を見つけることと、扉の鍵は総合的な意識に隠されていて、
心が透明なんだと認識できれば、鍵は私から私へと手渡されます。
その鍵を握るのが、心です。
心の中の善心と悪心が不ニであり元極であることを知ることと、
鍵のありかへ進むバロメーターは心が生み出す怒り憎しみ苦しみと差別です。
心の中にある鍵への案内人はネガティブな私達自身の意識で、
心の天秤を零(ゼロ)にしてネガティブな意識を消滅すれば、心にしまっておいた鍵はみつかり、
心(私)は扉の向こう側にある光の世界へと旅立つのです。
今年一年が、皆さんが心の鍵をみつけて、未来へと切り拓く年になりますように。
精神世界ランキングに参加しています。
遠隔ヒーリング体験者を募集しています(無料)
希望される方はカテゴリーよりセッションをお読みください。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
今年も今日で年末を迎え、また新たな年がやって来ようとしています。
私にとって激動の2009年でした(笑)
本当に今年一年色々なことがあって、
仕事が暇になって自分について深く考えさせられたり、
怒りや憎しみが増大して、打ち消す方法を模索したり。
と、まあ、色々ありました。
その中で僅かながらも前進したり、後退したりしていて、
ガイド達からも声援があったり、
警告があったり、
奇跡的なメッセ-ジを戴いたりと本当に感謝のしようもありません。
今年一年、
様々な事柄に気づかされて、
12月は否応無く心を浄化する思考を身につけなくてはいけない状況に追い込まれ、
とうとう、真実の自分が目を覚まして心の扉を開く鍵のありかも少しだけ判明したようです。
心の状態はまだまだ不安定ですが、
心がハイハイし始めた赤ちゃんの状態に一度リセットされました。
悟るって、ベイビーハーツになることなのかな?と感じています。
では、皆様、今年は大変お世話になり本当にありがとうございました。
そして、来年も皆様に幸せが訪れるように、お祈りいたします。
来年、またお会いしましょう。
精神世界ランキングに参加しています。
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生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
私にとって激動の2009年でした(笑)
本当に今年一年色々なことがあって、
仕事が暇になって自分について深く考えさせられたり、
怒りや憎しみが増大して、打ち消す方法を模索したり。
と、まあ、色々ありました。
その中で僅かながらも前進したり、後退したりしていて、
ガイド達からも声援があったり、
警告があったり、
奇跡的なメッセ-ジを戴いたりと本当に感謝のしようもありません。
今年一年、
様々な事柄に気づかされて、
12月は否応無く心を浄化する思考を身につけなくてはいけない状況に追い込まれ、
とうとう、真実の自分が目を覚まして心の扉を開く鍵のありかも少しだけ判明したようです。
心の状態はまだまだ不安定ですが、
心がハイハイし始めた赤ちゃんの状態に一度リセットされました。
悟るって、ベイビーハーツになることなのかな?と感じています。
では、皆様、今年は大変お世話になり本当にありがとうございました。
そして、来年も皆様に幸せが訪れるように、お祈りいたします。
来年、またお会いしましょう。
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