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空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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私達の体はあらゆるパーツに分解できますよね、

骨格・筋肉・内臓(消化器官や呼吸器官)・血管・神経・眼や耳等の感覚機能。

手や足、腕、指・・・

そして、それらのパーツを司る脳。

こうして分解するときりがないですし、まだまだ分解できますね(笑)

心も意識や思考、認識等に分解できますが、

ここではさておき、心を一まとめにしておきます。

人の体はあらゆるパーツが寄せ集められて構成されていて、

各パーツがお互いを補完しあいながら体を構成しています。

どれが欠けても人の体は形成されませんし、欠損すればかなり不具合が生じるでしょう。

こう考えると、人の肉体たる体にはどれが主体なのか判断がつきませんよね。

そして、心なのですが体がなければ心も存在せず、

心(意思)がなければ体は意味をなさなくなります。

心と体は切り離せず、二にして一つといえますし、

心と体もお互いを補完しあい、二分することはできないので、

この関係性の中に「生命のコネクション」といった相互依存性が見出せます。

心の成長は五感をとおして成長し、体と心の成長は比例していますよね。

 心も流れ行くもので、体の成長にも影響され、心の成長も体の成長に影響されます。

この相対的な関係性、相互補完性、依存的な関係の中にはやはり、主体(実体)はありません。

心と体はやはり、二つにして一つであり、

コネクション(関係性)から見るとどちらも主体であり、従っている関係であるといえます。

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禅や瞑想、ヨガや気功もそうですが、必ずといっていいほどグラウディングをします。

なぜ、必要なのでしょうか?

これは、瞑想中に姿勢を保つのと意識をふらつかせない為と、

ネガティブな存在やエネルギ-から身を守るためにグラウディングが重要なのです。

あらゆるヒーリングテクニックに関する書籍にもグラウディングの重要性が謳われていますが、

理由はほぼ前述したことと同じでしょう。

ヒーリングを受ける方は体と心に何かしら問題があってヒーリングを受けるはずです。

ネガティブな存在の影響かもしれませんし、心の問題であるかもしれませんが、

邪気を発していることには間違いはありません。

その邪気に影響されないように、グラウディングをして地球への中心へと邪気を抜いていきます。

よく、地球の中心にアースを入れるという表現をしますが、

不要なエネルギーをアースへ流して地球の中心で浄化している訳ですね。

そして、ヒーリング中も相手の不要なエネルギーを

地球の中心と宇宙の中心に浄化しながら抜いていきます。

グラウディングは頭の天辺と尾てい骨あたりを結んだ線を地球の中心に伸ばして繋げるのですが、

このイメージだけがグラウディングではなくて、

現実的なものの見方や、家庭のこと、仕事のことを思い浮かべることでもグラウディングになります。

かくいう私はグラウディングが下手です(笑)

しかし、最近気づいたのですが、私達は地球がないと生きられません。

まあ、あたりまえのことなのですが、

そのあたりまえを忘れてしまうのが人間です。

地球と繋がっていない生命は何一つないということです。

このことを心に浮かべるだけでも強力なグラウディングになります。

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 悟った人を私達は世尊とか如来とか聖人とか呼んでいますよね。

それに対して私のような無知な者を凡夫と呼びます(笑)

皆さんはどちらの人が尊いと思いますか?

ブッダは自身を正等覚者と呼んでいますが、

意味は読んで字のごとくです。

「正しく等しいことを覚った者」で「ありのままに見つめる者」ですよね。

仏教聖典の中に悟りを得たブッダがベナレスへ赴き、

昔の修行仲間に初めて説法を行う場面があります。

有名な初転法輪の場面ですね。

仲間に名前で声をかけられたブッダはこういいます。

「如来に呼びかけるのに名をいい、また『君よ』と呼びかけをもって如来に話しかけてはならぬ。」

しかし、

ブッダ生存当時使っていた言語であるパ-リ語の古い聖典では、

仏弟子がブッダに向かって名前で呼びかけ、尋ねる人が君よと呼びかけています。

「私を如来と呼び、敬いなさい」これは、後世の僧団がブッダを神格化しようとした創作でしょう。

如来とは「ありのままに来る者」という意味で、人をありのままに見つめ、

その視線には、いかなる区別もありません。

としますと、

やはり”悟った”人は威張ったり、私を「尊師」と呼びなさいとは絶対にいいません(笑)

逆に、威厳じみた人は真の悟りに到達していないことになります。

さらに、「凡夫」の状態がなければ「悟り」には至れません。

何故かというと、無明がなければ光明は得られないからです。

では、凡夫と悟りを得た人の差異はないということになりますが、

悟りを得ようとする人も、市井のままでいようとする人も差異がないでしょうか?

ここが大事なところですが、やはり「ない」のです。

全ての人が人生という道を歩んでいますから、

その道の過程を「ありのまま見つめる」と過程の前後に差異がないからです。

一人でも多くの人のアセンションをサポートできたらと、思っています。
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 心はなぜあらゆる欲に執着し、我執にとらわれるのでしょう。

それは、私達が自然の法則を無視しているからです。

「全ての生命と物質は流転変化するもの」この単純な自然の法則に背いています。

人には生存欲があります。

あたりまえなのです、生きていますから。

しかし、そのあたりまえの生存欲を誇大化させているのは心にあります。

生きるために必要な最小限以上の欲を大きくして物質や現象に執着しているのは心の中にあり、

足りているはずなのに、足りないと妄想をおこしているのは心です。

また、我執という妄想に支配されているのも心です。

この世界を見渡すと永遠であるものは何一つありませんし、

独立して生命を維持している生物もありません。

私達人間も自然の循環的システムの中でしか存在しえません。

物事の価値もとらわれた心が妄想をおこしているだけで、

原始から物に付している意味はありませんし、

事象も「あるがまま」おきているだけです。

とらわれた心を開放すると、この世の全てが「あるがまま」おきていて、

全てが無色透明なんだと気づきます。

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