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空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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貴方が体験した出来事ですとか、

外界で起きている出来事は本当は無色透明なんですね、

私達は外の出来事に意味があるんだと思っていて、

それが当たり前のように思ってしまっていますが、

実は、貴方の心が身の周りに起きている出来事に憎しみ、

怒り、蔑み、悲しみ等の感情を付与させています。

貴方が意味を与えて、初めて貴方の中で出来事に対する「意味」が生まれますが、

起きた出来事は本当は透明なんです。

例えば、同じ出来事なのに人によって、心の内に起きる感情は違ってきます。

同じ出来事なのに、何故でしょうか?

ある人は、怒りを感じ、ある人は、悲しみを感じます。

これは、実は外の世界は透明であって、

その透明な世界に心が感情を発生させているだけなんです。

カルマも自然の法則ですし、原因と結果の法則も自然の法則なんですね、

その自然の法則によって起きている出来事は、

「あるがまま」起きているだけです。

人は皆、外界に起きた出来事が怒りを生じさせると思ってしまいがちですが、

本当は違います。

起きている事は自然の法則に従った台風と同じで、

心は怒りや憎しみがあるんだと勘違いしていて、

感情を投げつけているだけなのです。

透明なこの世界には、原始から付されている意味はありません。

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真実に気がつくと、生も死もありません。

私達は、生と死の狭間で生命を維持していますよね、

だから、生まれもしないし、死にもしなくて、

その生と死の円環に生命が存在しています。

そして、先人達がいなければ今の私の生は存在し得ないわけで、

そう考えると、ご先祖がいなければ私はいませんし、

私が今ここに生きていなければ、

ご先祖もいなかったことになります。

敬うという気持ちは大切にしなければなりませんが、

今ここにある私達の生とご先祖の生は同等です。

私達は「大いなる一つ」なるものがあってこそ存在し、

その「大いなる一つ」は私達の一つ一つの魂が「大いなる一つ」であり、

「大いなる一つ」がなければ個々の魂は存在しないのですね。

生と死は円環の中にのみ存在し、そのサイクルが生そのものだとしたら、

やはり、生と死は現象として捉えられるのみで、

本当は生まれもしませんし、死にもしません。

なぜならば、生と死を繰り返しているのが生命であり、その全体が私自身だからです。

であれば、死は当たり前のことで、ガンや死や自殺もその生の一態様なんですね。

そこで、先祖供養をしないと不幸になり、先祖がたたるという人もいて、

それが自殺やガンや不幸の元だといって、私の浄霊を受けなさいといっている人もいます。

しかし、生があれば必ず死もあるので、それはなにか、

「脅し」と言ってもいいかもしれませんよね。

賢い人なら、それは○○だと気がつきます。

もし、ご先祖を供養するのなら、貴方が生きて生きて生き抜くことで、

次の世代に繋いでゆくことです。

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嫌いな人、事、物。

これらの原因は、快い出来事を追い求めた結果、心の中に生まれる感情です。

誰でも平和を求めます。

人それぞれ平和の価値基準は違うもの、

心は平安を求めて、もっと得たいと色々な思索を始めるんですね。

平安な心を求めているつもりが、いつの間にか刺激を求めるようになって、

幸福を得られたときは「至福」という感覚になりますが、

流転変化していくこの世界の法則の中では、永遠に存在する「至福」はあり得ないですから、

いつかは壊れて、さらにまた「至福」を求めていきます。

私達は他人に対して、自己の心の基準に当てはめて、常に何かを求めていがちです。

その基準に合わないと、「嫌い」という感情が心に生み出されて、

その人との距離をとりたいとか、もう逢いたくないといった感覚になります。

これは、その人は「こういう状態が好ましい」という自己都合の心がそうさせていて、

相手の目線や第三者的目線で見ていないからそうなるのですね、

そして、好き嫌いの心の状態は、自己の意識下にしか存在しません。

好き嫌いは自己の意識下にのみ存在する感情なのですね、

好き嫌いの原因は、自己の執着が引き起こしていて、

相手方にあるのではない、ということができます。

これを防ぐには、「あるがままの心」を養うのと、無執着の心を養う必要があって、

得ても執着せず得られなくても執着せずに、

手放しながら前に進んでいくことが大切なのです。

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意識の変容は自分を変えることではないんですね。

あくまで私達が「大いなる一つ」であること、

無色透明で純粋な存在であることを認めることであり、

「悟り」や「覚醒」と呼ばれる意識の状態は、

「あるがまま」の自分を「ありのまま」認めることなんです。

私達は長い間このことを見誤ってきていて、

厳しい修行や禁欲、社会への奉仕といった身を捨てるようなそういった行為をとおしてしか、

「悟り」は得られないと思い込んでしまっています。

また、宗教は善悪の観念を強要して、善が最上の人の生き方だと決め付けていますが、

宗教上の善とは恣意的な観念が殆どといっていいでしょう。

なにが善でなにが悪なのか、だれにもその中間を決定できず、

真の善とは「悟り」を得たその先にあるからなんですね。

ですから、人はなにかにつけて自己嫌悪して、

自分の過去と今の意識や行為、容姿や能力に劣等感を感じることに慣れっこになっています。

そういった劣等感を持って、

「変えていかなくちゃ」とか「もっと、努力をしなきゃ」といって、

さらに高い壁を自らの手で作っているんですね。

高い壁を乗り越えるのを「楽しむ」という生き方もできますよね、

それは、素晴らしいことだと思いますよ。

でも、様々な人がいて、環境や能力からそういった意識をもてない人もいます。

私は「ダメ」な人間なんだ・・・

そんなふうに自己を否定し続けてなにか到達しなければならないと思い込み、

目覚めるなんてとても、とても・・・という人は、

本当はそのままでいたいだけなのかもしれません。

「悟り・覚醒」と呼ばれる意識は、

人と自分の過ちを「この世の見方が間違っていた」ことに原因があると気づくことです。

そして、私達は宇宙の一つの細胞で、

それぞれが機能を決めて生まれてきていることに気がつけば、

自分の能力や職業、容姿を気にしたりしなくなり、

意見や行為の違いを見て人を批判なんてしなくていいことにも気がつきます。

人は「みにくいアヒルの子」のままで、そのまんま愛されていて、

変身する必要なんて、ないんです。

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