空のように透き通った心をみつめて、あるがままへ。
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頭、首、肩、腕、手、胸、腹、腰、脚、足、そして心。
全て体を部分に分けて名称をつけたものですよね。
手は存在するか?に書いたとおりこれらも体の部分の名称を過去に学習した結果として、意識が任意で体を分けているだけです。
もう一度言いますね、意識が本来一体で分離していない体を過去に学習した名称を当てはめているだけで、本当は体は分けられないし、心(意識)も一体です。
内臓や神経、血管、筋肉、骨格、これらも前述したとおりです。
僕達は体を日常的に部分で呼んでいて、まるで分離しているかのような錯覚を起こしがちですが、本当は体の部分も箇所もなくって、一体なんです。
皆さん、手と手首は明確に分けられるでしょうか?
それと同じようにどこからどこまでが体で、どこが心なのか区別は付けられませんし、誰も自分の心を心から抜け出して体の外から心を見た人はいませんよね。
心と体は言葉(言語)によって分けられるもので、僕達の過去の学習が観念を生み出して分離しているかのように考えてしまいがちですが、本当は一つのもので分離できないものなんです。
僕達人間も同じように私と他人として区別していますが、本当は一つで分離させているのは意識です。
何もない空間から一人生まれてくる生命は一つもなくて、全ての生命は一なるものより宇宙の内部の細胞として生まれてきています。
皆さん、このことを深く追求してみてください。
全て体を部分に分けて名称をつけたものですよね。
手は存在するか?に書いたとおりこれらも体の部分の名称を過去に学習した結果として、意識が任意で体を分けているだけです。
もう一度言いますね、意識が本来一体で分離していない体を過去に学習した名称を当てはめているだけで、本当は体は分けられないし、心(意識)も一体です。
内臓や神経、血管、筋肉、骨格、これらも前述したとおりです。
僕達は体を日常的に部分で呼んでいて、まるで分離しているかのような錯覚を起こしがちですが、本当は体の部分も箇所もなくって、一体なんです。
皆さん、手と手首は明確に分けられるでしょうか?
それと同じようにどこからどこまでが体で、どこが心なのか区別は付けられませんし、誰も自分の心を心から抜け出して体の外から心を見た人はいませんよね。
心と体は言葉(言語)によって分けられるもので、僕達の過去の学習が観念を生み出して分離しているかのように考えてしまいがちですが、本当は一つのもので分離できないものなんです。
僕達人間も同じように私と他人として区別していますが、本当は一つで分離させているのは意識です。
何もない空間から一人生まれてくる生命は一つもなくて、全ての生命は一なるものより宇宙の内部の細胞として生まれてきています。
皆さん、このことを深く追求してみてください。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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渓谷を山と森と川に分けることができるでしょうか?
明らかな区別をもって分けることは不可能ですよね。
恣意的に任意で区別して分けることは可能かもしれませんが、分けれたとしても其々が独立して存在することは不可能です。
渓谷も山も森も川も言語であって状態を言い表す指針ですよね。
前のエントリー、手は存在するか?にも書きましたが、名詞に過ぎず、人の発明である言語の過去の学習の記憶にすぎません。
区別しているのは只知識であって、渓谷も山も森も川も知識通りの実在としては存在していませんし、渓谷は渓谷として存在していて、そこに山、森、川の区別はありません。
眼前に広がる風景は「あるがままある」状態であり、状態を表す言語を基にした観念を洗っていくと無限の空間が意識に広がっていきます。
言語は無から作られた有です。
また、区別も無から作られた分別です。
青い空に区別はなく、空と宇宙空間にも本当は区別がありません。
空間や場所を隔てているのは知識を基にした意識であると言えます。
明らかな区別をもって分けることは不可能ですよね。
恣意的に任意で区別して分けることは可能かもしれませんが、分けれたとしても其々が独立して存在することは不可能です。
渓谷も山も森も川も言語であって状態を言い表す指針ですよね。
前のエントリー、手は存在するか?にも書きましたが、名詞に過ぎず、人の発明である言語の過去の学習の記憶にすぎません。
区別しているのは只知識であって、渓谷も山も森も川も知識通りの実在としては存在していませんし、渓谷は渓谷として存在していて、そこに山、森、川の区別はありません。
眼前に広がる風景は「あるがままある」状態であり、状態を表す言語を基にした観念を洗っていくと無限の空間が意識に広がっていきます。
言語は無から作られた有です。
また、区別も無から作られた分別です。
青い空に区別はなく、空と宇宙空間にも本当は区別がありません。
空間や場所を隔てているのは知識を基にした意識であると言えます。
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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手を見つめてみてください。
貴方が手をなぜ見つめたのかは、体の一部を便宜上「手」と呼ぶことを過去に学習してることへの条件反射ですよね?
「手」とは名詞で、体の一部の名称です。
小さな頃に「おてて」とか「おめめ」とか、教えて貰っています。
言語は人の発明物なんですが、僕たちが「手」と呼んでいる体の部分は対応する部分へ言葉を当てはめただけで、学んだ当時に「手」を集団的な合意でもって便宜上「手」と呼んでいることの学習の結果ですよね。
なんだか、自分で言っていてもヤヤコシイんですがw
で、「手」は単なる言葉の響きであって、過去の学習の結果であると言えるし、手に「手」という言葉が付着しているのではなくて、感覚機能を通して意識と記憶がそれに「手」という言語を当てはめているだけです。
誰かが、「手を挙げてください」と言えば、誰かが手を挙げます。
言語は意思疎通のツールであるし、物を指す標識ですよね。
だから、「手」に対応する物質は本当に存在するかと言えば実際には存在していませんし、その逆に僕たちが手だと思い込んでいる物質に対応する言語も本当はないってことです。
皆さん、この喩えを色々な物事に当てはめてみてください。
「あ、そうだ!」
こんな風に思えるあなたはやわらか頭の素敵な方ですw
貴方が手をなぜ見つめたのかは、体の一部を便宜上「手」と呼ぶことを過去に学習してることへの条件反射ですよね?
「手」とは名詞で、体の一部の名称です。
小さな頃に「おてて」とか「おめめ」とか、教えて貰っています。
言語は人の発明物なんですが、僕たちが「手」と呼んでいる体の部分は対応する部分へ言葉を当てはめただけで、学んだ当時に「手」を集団的な合意でもって便宜上「手」と呼んでいることの学習の結果ですよね。
なんだか、自分で言っていてもヤヤコシイんですがw
で、「手」は単なる言葉の響きであって、過去の学習の結果であると言えるし、手に「手」という言葉が付着しているのではなくて、感覚機能を通して意識と記憶がそれに「手」という言語を当てはめているだけです。
誰かが、「手を挙げてください」と言えば、誰かが手を挙げます。
言語は意思疎通のツールであるし、物を指す標識ですよね。
だから、「手」に対応する物質は本当に存在するかと言えば実際には存在していませんし、その逆に僕たちが手だと思い込んでいる物質に対応する言語も本当はないってことです。
皆さん、この喩えを色々な物事に当てはめてみてください。
「あ、そうだ!」
こんな風に思えるあなたはやわらか頭の素敵な方ですw
生きとし生けるもの全ての心に優しい風が吹きますように。
byガム
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